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 梓乃くんに出逢った時のことを思い出すと、今でも夢だったんじゃないかと思う。  あれは、柔らかい日差しの降る、春の日だった。個人の店を出して、僕なりに順調にパティシエとしての道を進んでいた、あの頃。自分の夢には随分と近づいていたけれど、どこか物足りなさを感じていた僕の世界が変わった日。 「……?」  いつものようにケーキの仕込みをしながら店の外を伺っていると、一人の男の子が店の前までやってくる。綺麗な顔立ちをした、若い男の子。大学生くらいにみえるけれど、あまり遊んでいる雰囲気はない。おとなしそうな、でも明るそうな、不思議な雰囲気をもつ子だった。  彼は入り口に立って、少しの間そわそわとしていた。たぶん、入りづらいのだろう。僕のお店は知り合いのデザイナーに頼んで作った洒落た店構えをしているから、あのくらいの年頃の男の子には入りづらいと思う。無事入ってこれるのだろうかとこっそりと見守っていると、ようやくして彼は中に入ってきた。 「いらっしゃいませ」  彼が緊張しないように、なるべく柔らかい声で話しかけてみる。そうすると彼はビクッとしたけれど……どこかほっとしたような顔で、僕を見てきた。 「あの、」 「……!」  目があった瞬間、どき、とした。恥ずかしそうに微かに頬を染めた、その顔。僕を見て安心したように緩む口元。なんて可愛いんだろう、そう思った。  聞けば、妹の誕生日ケーキが欲しいのだという。わざわざ洋菓子店に来てこんなに照れながら妹のためにケーキを買ってあげる、そんな彼になんだかきゅんとした。今時珍しいというか、なかなか見ないタイプの男の子だったから。  細身の身体、さらさらとした黒い髪。思わず彼の容姿を観察したけれど……やっぱり表情に目がいく。目が離せない、そんな可愛らしい表情をしている彼。ああ、可愛い。本当に可愛い。そう思った。 「ちょっと待っていてもらえますか?」 ――なんだか、やばい。そう感じる。男に対して可愛いなんて思っちゃって、大丈夫だろうか。自分にゲイの気があるなんて感じたこともないし、男を可愛いなんて今まで思ったことがない。いや、むしろ、他人に対してそこまで強い愛おしさを覚えたことがない。  危ない、そう感じて僕はバックヤードに逃げた。ケーキにおまけをつけてあげる体(てい)ではあるけれど、これ以上彼を見ていたらおかしくなりそうだと思ったから。  なんとか気持ちを落ち着けて、もう一度彼の前に出る。そわそわとした様子で待っていた彼は、やっぱり可愛くて、焦ってしまう。  メレンゲドールとプレートを乗せたケーキをみた彼は、ぱっと顔を輝かせた。そんなに大それたサービスではないのだけれど、彼は本当に喜んでくれた。もう、本当に何もかもが、僕の心をくすぐってくる。おかしくなってしまいそうだ。 「またきます」  社交辞令だろうけれど、彼はそう言って去っていった。たぶん、再びくることはない。年頃の男の子が、わざわざこうした洋菓子店にくることなんて、ほとんどないのだ。  彼の背中を見ながら、ホッと一息つく。あんまり彼と話していると、よからぬ想いを抱いてしまいそうだ。  その日は、何も集中できなかった。こんな風に自分がなってしまうなんて初めてで戸惑ったけれど、もう彼に会うことはないだろうから、すぐに忘れるだろう、そう思っていた。

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