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「……っ、」  するりと心の隙間に入り込んでくるような、狡い口付けだ。触れ合ったところからじわりじわりと熱が侵食してくると、体の強張りがほどけてゆく。ああ、この人、キスが上手だな……そんなことを思う。  丁寧で優しい、そんなキスをされていると、考えてしまう。彼は俺に何を求めているのだろうと。少なくとも、性欲を満たすためのセックスで、こんなキスはしない。そして、予感を覚えて、俺はこのキスに恐怖を覚える。 「あ、あの、窪塚さん」 「ん?」  これ以上、この人にキスを許してはいけない――それは直感だ。俺は窪塚さんを押しやって、キスから逃げた。 「あのー……そんなに優しくしなくていいですよ、エッチするだけなんだし」 「……別に、俺はヤレればいいとかは考えていないから、適当になんてやらないよ」 「ううん……じゃあ、なんでエッチしたいんですか? 俺と」 「……焦がれているからだよ、おまえに」 「……、」  窪塚さんが俺をまっすぐに見つめる。そんな真摯な告白をされたことがなかったので、俺は言葉に詰まって黙り込んでしまった。そして同時に、まずい、と思った。  ――俺は、セックスがすごく苦手だ。その、理由は。“想い”は俺の自由を奪うからだ。それが向ける想いであっても、向けられる想いであっても。  まさか窪塚さんが俺にそういった感情を抱くとは思っていなかったので、途端に俺は彼とのセックスに恐怖を覚えた。 「セラに初めて出逢った時――俺は、単純におまえの顔を気に入った。彼ならば、俺の下につけるだろうって。でも、おまえのことを見ているうちに……おまえのヘラヘラした顔の裏にある本性が、どうしても気になった」 「……」 「今朝、一人で煙草を吸っていた、あの姿がおまえの本当の顔だろう? 俺はあのおまえが好きだよ。あの顔を見た瞬間――胸を射抜かれたようだった。そして……今、その顔を隠したまま俺に抱かれようとしているセラに、すごく、やきもきする。俺は、おまえのことを抱きたいのに、今のおまえはおまえじゃない」 「俺は、俺ですよ――」 「俺は――おまえを抱きたいんだ、“翼”」 ――翼、その名を呼ばれた瞬間に、俺は頭が真っ白になった。  翼、それは俺の本当の名前だ。一条 翼――俺の本名は、誰かに呼ばせるつもりはない。その名前は、俺自身。虐待された過去、世間から隔離された生き方――それらから解放され、“自由”を生きると決めた俺の名前だ。 「翼、なんて呼ばないでください。困っちゃうから」 「……翼」 「あの、」  窪塚さんが俺を想うのなら、それは俺を縛る枷になる。煩わしいわけじゃない、嬉しくないわけじゃない。むしろ想われることは、愛に餓えて生きてきた俺にとって、幸福を覚えることだった。俺は普通のひとのように、平凡に幸せに生きたい。けれどそれ以上に――自由を生きたい。  俺が一歩後ろに下がると、窪塚さんが俺の肩を掴んで再び唇を奪ってきた。今度は後頭部を掴まれて、逃がさないとそんな強い情念を込めたキスだった。 「んっ――……」  ず、と体を押されて、ベッドに押し倒される。俺は抵抗しようと思ったが、――…… 「あっ……、……んっ、……ん、」  体が、言うことをきかない。窪塚さんのキスがあんまりにも上手くて、体が蕩けてしまう。ずぶずぶと生暖かい泥に沈んでいくような……体が頭を支配してゆく、そんな感覚に陥った。

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