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第5話

 そうすけが仕事にいったあと、さとりはひとり残された部屋の中で、なにか自分にもできることはないかと考えた。それで思いついたのは、ここ数日忙しくて片付けができなかったというそうすけのために、この部屋をさとりが片付けるというものだった。  まずさとりはたまっていた洗濯物を洗おうとした。「洗濯機」というものが、人間が衣類などを洗う際に使うものだということはかろうじて知っていた。この中に汚れた衣類を入れれば、あとは「洗濯機」がすべてやってくれるという優れものだ。  昨夜、そうすけがさとりの髪を洗ってくれたときに使用したぬるぬるの液体がとてもいい匂いだったので、それも一緒に入れてスイッチを押した。「洗濯機」が無事に動き出したのにほっとして、リビングへと戻る。台所のシンクに溜まっていた食器を洗おうとして、スポンジを手に取り、近くにあった洗剤らしきもののチューブをぎゅっと手で絞った。  そうすけが帰ってきたら、ピカピカの部屋を見て喜んでくれるだろうか。  想像したらうれしい気持ちがこみ上げてきて、さとりの口元はゆるんでしまう。  そのとき、洗面所の方から、ぼごぼごぼご・・・・・・とおかしな音がした。慌ててようすを見にいこうとして、手元が滑り、持っていたグラスを落としてしまった。ガシャン、とグラスが割れ、とっさに伸ばした手からまたつるりと滑って、今度は皿を割ってしまう。その間にも、ぼごぼごぼご・・・・・・という音は続いていて、さとりはひとまず音のする洗面所へと向かう。そこでさとりの目に入ってきたのは、振動しながらぶくぶくと泡を床に吐き出している洗濯機だった。 「な、なんで~?」  急いで洗濯機の動作を止めようとするが、押す場所が違うのか、洗濯機はガゴン、ガゴンと振動しながら、いまだに泡を吐き出し続けている。足元がずるりと滑り、さとりは泡だらけの床の上にすっ転んだ。 「った!」  洗濯機の端に頭を打ちつけ、涙が滲んだ。立ち上がり、コードを根本から引っこ抜くと、洗濯機はようやく振動を止めた。 「と、止まったあ~」  さとりはその場にへたり込んだ。あらためてその惨状が目に映り、泣きたい気持ちになる。 「そうすけが帰ってくる前に何とかしないと」  さとりは焦った。何か拭くものはないかと周囲を見回し、視界に入ったタオルを手に取った。這いつくばってごしごしと床を拭くが、タオルはすぐに泡と水を含んで、ぽたぽたと滴を垂らしてしまう。それでも根気よく同じ動作を繰り返すと、ようやく床に溜まった水と泡はふき取れた。けれど洗濯機には、まだ泡がこんもりと盛り上がっていて、どうしたらこの水がなくなるのか、洗濯物がきちんときれいな状態になるのか、さとりにはわからなかった。 「・・・・・・割っちゃった食器を何とかしないと」  時間がたてば少しはましな考えが浮かぶような気がして、ひとまずリビングへと戻る。リビングの真ん中では白いふわふわの妖怪が数匹飛び跳ねていて、そうすけの本をびりびりに破いていた。 「わーわーわー!」  さとりの声にびくりとして、白いふわふわの妖怪はぴゅーっと部屋のどこかへ逃げていった。さとりはびりびりになった本を手に取り、茫然となった。  白いふわふわの妖怪は、普段は人間の前に姿を現すことはないし、臆病なのかイタズラをすることもほとんどない。それがどうしてかと理由を考えれば、この部屋にさとりがいるからに他ならなかった。部屋の中を見渡せば、そうすけが家を出たとき以上の惨状が広がっている。  本当は仕事から帰ってきたそうすけに、喜んでもらいたかったのだ。それがどうしてこんなことになってしまったのかと、さとりは途方に暮れた。  さっき逃げたはずの白い妖怪がひょっこりと姿を現して、さとりの足元でぴょんぴょんと跳ねる。さとりは部屋の隅で膝を抱え、ぐずぐずと泣き出した。 「なんじゃこりゃー!!」  その日の夕方、カチャリと玄関の扉が開く音がして、次に聞こえてきたのはそうすけの叫び声だった。その声に、部屋の中で遊んでいた白いふわふわした妖怪が、再びぴゅーっとどこかへ逃げていった。  さとりは部屋の片隅で、びくりと身体をすくませた。 『俺が家を出てから帰ってくるまでいったい何があったんだ!?』  そうすけが何かを足元に引っかける音がして、「わっ」とか、「ひっ」などの短い悲鳴が聞こえてくる。そのたびに、さとりはますますその身体を小さく縮こまらせ、びくびくとしていた。 『わー、洗面所が・・・・・・てか、洗濯機が泡だらけじゃないか。あ、この匂い、ひょっとしてシャンプーか!? 洗い残しの食器は割れてるし、わー、お気に入りの本が・・・・・・!』 「そーすけ・・・・・・」  絶句したまま、部屋の入口で茫然と立ち尽くすそうすけを、さとりはそっと振り返って見た。 「ごめんなさい・・・・・・」 『いや、ごめんなさいじゃなくて・・・・・・』 「怒って・・・・・・なくはないけど、そうじゃないんだ。どうしてこうなったか説明してくれ」  そうすけの手には、白いふわふわの妖怪が破いた本のページが握られている。  白いふわふわの妖怪がやったんだと言っても、その存在自体が見えないそうすけは信じないだろう。弁解の言葉も見つからず、さとりはズッ、と洟をすすった。 「お、おいら・・・・・・」  口を開いたとたん、再び涙がこみ上げてきて、さとりは瞼をこすった。 「・・・・・・そうすけに喜んでもらおうと思ったんだ。でも、うまくいかなくて・・・・・・。おいら・・・・・・ご、ごめんなさい・・・・・・」  うつむいたまま、顔を上げることができないさとりの頭上で、ふう、と息を吐く音が聞こえた。 『片付けようとしてくれたのか』 「ケガはないか?」 『・・・・・・ああ、指から血が出てるじゃないか』 「そ、ぞーすけ」  そうすけがもう怒っていないとわかったとたん、気がゆるんでぽろぽろと涙があふれ出す。思わず鼻声になったさとりに、そうすけが吹き出した。 「・・・・・・ぞーすけって何だよ」  呆れたように笑う。  そうすけの言葉だけがいつもやさしい。苦しくない。 『・・・・・・仕方ねえよなあ』  諦めの滲んだ声がぽつりと降ってきたけれど、そのときのさとりの耳には入ってはこなかった。  さとりがようやく泣きやんだ後、指のケガの手当てをしてくれたそうすけと、リビングで向かい合って夕食を食べた。料理が趣味だというそうすけが、以前時間があるときに作って冷凍しておいたオレンジ色のスープは、細かく切ったいろんな種類の野菜がごろごろ入っていて、とてもおいしかった。食事をしている間、顔の半分を覆い隠すさとりの前髪が鬱陶(うっとう)しそうだなというそうすけの気持ちが伝わってきたけれど、彼は何も言わなかった。 「それでこれからのことだけどな」  夕食も終わり、まったりとした空気が流れる中、そうすけが切り出した。  これからのこと?  さとりは首をかしげる。  いったいそうすけは何を言っているのだろう? 「お前、もしいくところがないならしばらくの間ここにいてもいいぞ」  ・・・・・・!  さとりはびっくりした。まさかそうすけの話がそんなことだとは想像もしておらず、てっきりご飯を食べ終えたから出ていけと言われると思っていたのだ。  そうすけは、そんなさとりのようすを窺うようにじっと見ると、やがて小さく息を吐いた。 『こいつの正体が怪しいことには違いないけどな。放っておけないんだから仕方ない』 「ただ、はっきり言うが、俺はまだ完全にお前のことを信用したわけじゃない。もしも家に置くなら、ある程度のルールは決める。それが守られないならすぐに追い出すからな」  さとりはまだ目を大きく見開いたまま、一言も言葉を発することができないでいた。そうすけは、さとりのそんな態度を誤解したのか、あえてきつい表情を浮かべていたと思われるその顔を、ふっとゆるめた。 「・・・・・・別にルールと言ってもそんなに難しいものじゃない。共同で生活するにあたって、ごく普通のことばかりだ。それに俺の生活は一般的とは言い難いからな。お前がそれを守るなら、しばらくの間ここにいていいよ。将来のことが何も見えないというなら、いまから考えればいい。できる限りの協力はしてやるし、相談にものってやる・・・・・・さと?」  さとりは、そうすけの言っていることが信じられなかった。そうすけとまだ一緒にいられる、という思いが頭に追いついたら、これまで無意識にいろいろなものを堪えていた気持ちが一気に飽和状態になってあふれ出た。 『・・・・・・まいったな』  うつむき、声を殺して泣くさとりの頭上から、そうすけの心の声が落ちてくる。それはまるで春の雨のようにやさしかった。 『頼むから泣かないでくれよ・・・・・・』 「お前、泣きすぎだろうよ」  困惑の滲んだ声で呆れたように呟き、テーブル越しにさとりの頭をぐしゃりとかき混ぜてくれたその手はあたたかくて、さとりはなぜだかよけいに切なくなった。

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