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第10話
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「それじゃあ、いってくるからな」
仕事へ向かうそうすけを、わざわざ玄関まで見送りにきたさとりに、彼は苦笑を滲ませた。
『こいつ隠そうとしてるけど、寂しそうなのがバレバレなんだよな』
「いつも言うけど、俺につき合ってこんなに早く起きなくてもいいんだぞ。居候だってわざわざ見送りなんてしなくていいんだ」
『ひょっとしたら無理をしてるんじゃないのか? 確かにルールを守らないと追い出すって言ったのは俺だけど、もっと楽にしていいんだぞ。いまさら、こいつが何か悪さをするなんてもう思ってない』
そうすけの思念が伝わってくるたびに、さとりの胸はほわっとあたたかくなる。
「む、無理なんてしてない。全然してない」
ぶんぶんと頭を振るさとりに、そうすけはふっと目元をゆるめた。
『かわいいな・・・・・・』
さとりは大きく目を瞠った。そのようすを見て、そうすけがわずかに不思議そうな顔をする。
『・・・・・・どうした?』
「い、いってらっしゃい。お仕事がんばってね」
さとりの言葉に、そうすけがふっと笑った。手を伸ばし、さとりの頭をくしゃっとかき混ぜる。目をまん丸くさせるさとりを見つめるそうすけから、何かあたたかい気持ちが伝わってきた。さとりは真っ赤になった。
「いってくる」
「い、いってらっしゃい!」
そうすけを送り出した後も、さとりはしばらくその場でぼうっとしていた。さとりの足元を白いふわふわの妖怪がぴょんぴょんと跳ね、水を寄越せと要求する。
「あっ。ごめんね、いまあげるから」
さとりは白いふわふわの妖怪に水をあげると、朝食の後片付けをした。近所に音が響いてしまうと迷惑なので、大きな音が出てしまうものは、夜が明けてからにしろとそうすけに言われている。だからさとりはそれまではリビングのソファでほんの少しだけうとうとしたり、ベランダで夜が明けるのをじっと待っていたりした。
「洋服は、色物と白系のものはわける。ポケットに何か入ってないかチェックをして、洗剤は髪の毛を洗うやつとは別の専用のやつを使う・・・・・・」
そうすけに教えてもらった手順をぶつぶつと呟きながら、やや緊張して面もちで慎重にスイッチを押す。洗濯機が怪しい音を立てることなく正常に動き出したので、さとりはほっとした。最初に失敗したときのように、ぶくぶくと泡があふれてくることもない。待っている間に掃除を済ませてしまおうと、さとりはリビングへと移動する。
さとりの足元を白いふわふわの妖怪が数匹ついてきて、危うく踏みそうになってしまった。
「危ないよ?」
そっと話しかけると、白いふわふわの妖怪はますます調子に乗ってさとりの周りをジャンプした。
「あっ!」
冗談で言ったつもりが、そのうちの一匹を本当に踏みそうになって、慌てて避けたとたん、さとりはフローリングの床にズ・・・・・・、と足を滑らせた。受け身を取り損ねて、しこたま右膝を打ちつける。
「いたたたた・・・・・・」
痛みがひどくて、さとりはしばらくその場でじっとうずくまった。そうしていると、じんじんとしていた痛みが少しだけやわらいだ気がして、そろりとズボンの裾を捲り上げ、内出血を起こしている膝小僧を確かめた。このままでは痣になるだろう。でも、膝小僧なら普段は洋服の下に隠れるから、傷が消えるまでの数日間着替えるときに見られないよう気をつければそうすけに気づかれることはない。
ズボンはそうすけの休みの日に、一緒に大型量販店にいって買ってもらったものだ。本当は「ぷらねたりうむ」というのにもいく予定だったのだか、残念ながら混んでいて入れなかった。がっかりするさとりに、そうすけは「また今度な」と言ってくれた。
スーパーで食材を買って、帰りにフードコートというところで、ソフトクリームを買ってもらった。初めて食べるソフトクリームは、ほっぺたが落ちるんじゃないかと思うくらいに甘くておいしくて、びっくりしてそうすけを見ると、そうすけはさとりのそんな反応はお見通しだという表情で得意げに笑っていて、さとりはどきっとした。
そうすけはやさしい。そんなことはとっくに知っていたけれど、さとりが思っていた以上にやさしい。これまで知る妖怪仲間たちやほかの人間のように、さとりのことを、嫌悪や悪意に滲んだ目で見ることもない。普通の、ただの「さと」としてさとりを一人前に扱ってくれる。 そんなとき、さとりはうれしくてたまらなくて、鼓動がいつもより速くなる。同時になぜだかちょっとだけ胸がちくんとして、泣きたいような、何とも言えない気持ちになる。この気持ちがどこからくるのかわからなかった。人がこういうとき、この思いにつける名前があることも。
そうすけは子どものときに夢だった「アナウンサー」という仕事をしていて、夜明けよりもずっと前、人々が寝静まった夜の街を、毎日決まった時間に家を出ていく。スーパーへ買い物にいったときも、周りの人間は皆そうすけのことを知っていて、特に女の人は実際に話しかけてきたりする。そんなときそうすけはそつなく受け答えをするのだけれど、内心あまりよく思っていないことを、さとりは知っていた。
一度どんなことをしているのかそうすけに訊ねたら、少し前に初めて一緒に見た、「テレビ」番組のチャンネルの合わせかたを教えてくれた。言われた時刻にさとりがテレビの前でどきどきしながら正座をして待っていたら、普段とは少しだけ雰囲気の違うそうすけが「テレビ」という箱の中に映ったからびっくりした。それからは毎朝そうすけを見送ったあと、彼が出るニュース番組を見るのがさとりの日課となった。部屋にそうすけはいないのに、そうすけの姿が見られるのはうれしい。でもやっぱり本物のそうすけの側にいられるのが、さとりは何よりもうれしかった。
洗濯機の終了の音楽が流れたので、さとりは洗面所へと向かった。プラスチックのカゴの中に洗い終わった洗濯物を入れて、ベランダへと運ぶ。ガラガラとガラス窓を開けると、とたんにむっと熱気のこもった空気が流れてきた。さとりは濡れた洗濯物を丁寧に広げて、干していった。青空の下、ハタハタと洗濯物が風に扇ぐ。一仕事を終えると、さとりは視線を遠くへ向けた。
そうすけの住む「東京」は、さとりが棲(す)んでいた山とは大違いだ。高い場所から街を一望しても、ごちゃごちゃと建物が密集していて、遙か彼方に山はうっすらと見えるだけだ。額に滲んだ汗に、風が気持ちよかった。しばらくそうしてぼんやりと街の景色を眺める。
そうすけに会いにいく前、さとりは龍神とある契約をした。いくらさとりが物知らずだとしても、そうすけのいる「東京」という街には、自分が棲んでいるところとは比べようもないくらい、多くの人間が住んでいることは知っていた。さとりが棲む村の人間の微かな思念などから、ときおりそんな情報が入ってくるからだ。
そうすけのところへいきたい、彼に会いたい。
震えながらそう願い出たさとりを、龍神は物言わぬ氷のような瞳で、じっと見つめた。
どれくらい時間が過ぎただろうか。
「子どもの中には、人間たちからしたらこの世に存在しないとされるモノが見える者もいる。お前のいう人間もそうなのだろう。たとえそうだとしても、それは側にいる間だけだ。離れれば縁は薄くなり、やがて細い糸がぷつりと切れるように、最初から糸の存在自体がないものになるだろう。お前がそれだけ会いたいと願う人間は、お前のことなどとっくに忘れているかもしれないよ」
そうすけが自分のことを忘れている。想像しただけで泣きたくなるくらい、胸の奥がぎゅっと痛んだが、さとりはカタカタと小さく震えながら、まっすぐに龍神の顔を見つめた。
「・・・・・・それでもいいの。おいら、どうしてもそうすけに会いたい。一言でいいから、その声が聞きたい」
「ーー何かを望むには代償がいるよ」
さとりは、はっきりとうなずいた。
それまで、何の感情も読みとれなかった龍神の湖の底のような瞳に、何か感情の色がチカリとよぎった気がしたけれど、すぐに消えてしまったのでおそらくはさとりの見間違いだったに違いない。
「その人間が、すべてを捨ててまでお前のことを必要だと思わなかったら、そのときお前は消滅してしまうよ」
さとりはきょとんとした。驚いたようにわずかに見開いた目を、ふいにふわりとゆるめる。
なんだそんなこと、とさとりは思った。そうすけがすべてを捨ててまで、自分のことを必要だと思ってくれることなんてあり得ない。それでももう一度、そうすけに会えるのならば、自分のこんな命などなくなっても、ちっとも惜しくはなかった。
龍神はさとりの指に、何かの糸を巻きつけた。
「これは?」
「この糸を辿っていけば、お前の会いたいという者に会えるだろう」
蜘蛛の糸ほどの細さしかない糸は、触れたら切れてしまいそうなほど頼りない。けれど暗闇の中、月の光をすりつぶして粉にしたみたいに、淡く光を放つ糸は、この先にそうすけがいるのだという何よりも確かな希望を、さとりに与えてくれたーー。
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