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第11話
白いふわふわの妖怪が、さとりの足元でぴょんぴょんと跳ねる。それを見てさとりは口元をほころばせると、室内へ戻って平らな小皿に水を少しだけ入れてあげた。故郷にいたころ、白いふわふわの妖怪が朝露を好むことは知っていたが、あるとき試しに小皿に水を入れて出してやったら、喜んでいるのがわかって、それからは毎日あげるようになったのだ。
さとりは無意識のうちに、視線を窓の外へと向けた。
ここはさとりの知る故郷の山とは全然違う。自然も多くないし、植物や虫たちも少ない。妖怪たちでさえ、故郷の山ほどはその姿をめったに見ることはない。けれどここにはそうすけがいる。そうすけの側にいることができる。
龍神との契約がいつまでかはわからなかったけれど、この命が存在する限りは、さとりはそうすけの側にいたかった。
さとりは、よし、と呟いた。きょうも一日がんばろう。
テーブルの上にノートを開いて、習ったばかりの文字をおさらいする。さとりが読み書きできないことを知ったそうすけは、夕食後、風呂から上がった後に、さとりに勉強を教えてくれるようになった。
ノートには、そうすけがお手本で書いてくれたきれいな文字と、へたくそなさとりの文字が並んでいる。
『こいつはいままでどうやって生きてきたのだろう』
ときおり向かい合ったそうすけから、そんな思いが伝わってきたけれど、その問いにさとりは答えることができなかった。自分はそうすけを騙しているのだと思うたびに、さとりの胸はちくん、と痛んだ。
もちろんそうすけはさとりが妖怪であることを知らない。たとえば普通に生活をしていれば当然知っているべきことの数々をさとりが知らなくても、訝しむそぶりは見せても、ほかの人間たちとは違って怒ったり苛立ちをぶつけてきたりすることはなかった。さとりはほかの人間をたくさん知っているわけではなかったけれど、それがめったにない特別なことであることは知っていた。
もしおいらが妖怪だとそうすけが知ったら、人の考えを読むことができるとわかったら、そうすけはやっぱりおいらのことを嫌いになるだろうか。疎ましく感じるだろうか。
沈みかけた気持ちを、ぷるぷるっと振り払う。ポケットに手を入れて、布でできた小袋を取り出した。袋の中には、そうすけが書いてくれた「ケータイ」の番号。ここにかければ繋がるのだと言って、そうすけは電話のかけかたをさとりに教えると、実際に試させてくれた。あまりにさとりが小さな紙切れを大事にするので、苦笑を滲ませながらも、どこからかメモが入るくらいの袋を探し出してくれた。さとりの首からいつもぶら下がっているネックレスの石と共に、大切な宝物だ。いま、さとりはその数字が読むことができる。そうすけの仕事の邪魔をしたくないからかけることはないけれど、望めばいつでも電話をかけることができるのだ。
お手本の文字を真似して、何度も練習する。集中して勉強をしていたら、あっという間に時間が過ぎていた。気がつけば肩と首のあたりが凝り固まっていて、さとりはノートを片付けると、うーん、と伸びをした。ベランダに出ると、朝干しておいた洗濯物はすっかり乾いていた。取り込んで、Tシャツやタオルなど、アイロンをかけないでいいものだけきちんと折り畳む。それ以外のものは、なるべく皺にならないよう、山にしておいた。アイロンがけと火をつかうことだけは、まだそうすけに禁止されている。一度そうすけに教えてもらった「コーヒー」を淹れる練習をしようとして、薬缶に火をかけたままうっかり忘れて空焚きしてしまったのだ。運良くその日はたまたまそうすけがいつもより早く帰ってきて、大事にならずにすんだからよかったものの、さすがにこのときは震え上がるほどこっぴどく叱られた。そのときも、怒って荒れたそうすけの心からはさとりにケガがなかったことをほっとする気持ちが伝わってきて、さとりは涙を滲ませながらも、二度とするまいと固く心に誓った。
夕飯は、そうすけが帰ってから一緒に作る。そうすけはあらかじめさとりに買い物の仕組みとやり方を教えてくれた後、一緒にスーパーまでついてくると、実際に何度か練習もさせてくれた。一見成人した人間に見えるさとりが買い物の仕方を知らないことは奇異に映るようで、人々からどんなに好奇の目で見られても、そうすけはさとりを急かすようなことはしなかったし、嫌がらなかった。まだ少しだけ緊張するけれど、いまではさとりもひとりで買い物にいけるようになったので、そうすけが用意してくれたメモの材料を練習もかねて買いにいく。ひとつも間違わずに買えたときに、そうすけはさとりの髪をくしゃっとかき混ぜながら、「えらいぞ」と誉めてくれるのだ。そのたびにさとりの胸はあたたかいものでいっぱいになって、きゅうっと切なくなった。
「えっと、きょう買うのはタマネギとカレーのルーと、ローリエ・・・・・・、あれ、ローリエってなんだっけ。あっ! あの匂いのする葉っぱだ!」
人間が多く集まる場所へひとりで出かけることは、いまだにひどく緊張する。あしたは仕事が休みだから、練習がてらどこかにいくかと、出がけにそうすけが話していた。
「タマネギと、カレーのルーと、ローリエ、それと何か果物。タマネギとカレーのルーとローリエと果物」
そうすけの読みやすいはっきりとした文字が、なんて書いてあるのかわかってうれしい。
さとりは「よしっ」と気合いを入れて立ち上がった。さとりの近くで遊んでいた白いふわふわした妖怪が、さとりの声にぴょんと跳ねた。そのままぴゅーっとどこかへ逃げていってしまう。悪いことをしたなと反省しながら、さとりはそうすけから預かった買い物専用の財布を手にとった。大型量販店でさとりの着替えと一緒にそうすけが買ってくれた麦わら帽子を頭に被る。初めてそうすけに会ったときに、そうすけが頭に青い布を被っていたことが不思議だったけれど、あれも麦わら帽子と一緒だと、さとりはいまさらながらに知る。落としてしまわないよう、ポケットの上から何度もメモの存在を確かめて、さとりはそうすけの家を出た。
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