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第12話

 みーんみんみんみー。みーんみんみんみー。  蝉時雨が降る。アスファルトの上を逃げ水が揺らめいた。 『あ~、マジで暑っちいなあ。異常気象ってやつか?』 『暑い暑い暑い死ぬ』 『レナってなんでいつもああワガママなんだろう。ほんとうっざー。なんか勘違いしてんじゃないの~? そんなにかわいくもないくせに。でも、つき合わないといろいろメンドクサイしなあ~』 『あ~、仕事したくない。仕事したくない。田中部長死ね! あの横から持ってきてる髪の毛なんなの~? いつも吹き出すの必死で我慢してんだけど。あ~、暑い。仕事したくない』  耳を塞いでいても否応なしに絶えず聞こえてくる心の声に、さとりは脂汗を滲ませながら、必死に歩く。  タマネギとカレーのルーとローリエと何か果物。タマネギとカレーのルーとローリエと何か果物。 『わー、こいつ何ぶつぶつ独り言ってんの? 気持ち悪~! 前髪長すぎ~。オタクかよ』  買わなきゃいけないものを何度も口の中で唱えると、気のせいか少しだけ具合が悪いのが治まる気がした。前にそうすけと一緒にきたスーパーで必要なものを買って、買い物袋に詰める。果物は桃と梨で迷って、梨に決めた。それからそうすけが好きだというグレープフルーツ。再び同じ道のりを戻って見慣れたマンションが見えてくると、さとりはほっとした。  もう少ししたらそうすけが帰ってくる時間だ。それまでに風呂掃除もすませておきたい。  あんなにもうるさかった蝉時雨が消える。何気なく顔を上げて、さとりはこの場にいるはずのないひとの姿を見つけた。 「龍神さま・・・・・・?」  手から力が抜けて、買い物袋が落ちる。袋の口から梨がコロコロ・・・・・・と転がってゆくのを、龍神が拾った。それから手の中の梨を何か物言いたげな表情でちらと見る。 「お前の正体をまだ人間に話してないようだな」  何も答えられず、さとりはうつむいた。血の気の引いた顔で、唇をぎゅっと噛みしめる。  龍神が何をしにきたのかなんて、そんなこと決まっていた。タイムリミットだと告げにきたのだ。  自分の命など消滅しても惜しくないと思っていたのに、もう少しでそうすけが帰ってくるのだと思うと、未練がましい思いが湧いてくる。  もうひとめ、ほんの少しでいいからそうすけに会いたい。大好きだと伝えたい。勉強を教えてくれてありがとう、おいらなんかにやさしくしてくれてうれしかったのだと伝えたかった。 「や、約束はちゃんと覚えています。覚悟もできてます。でもあと少し、もうちょっとしたらそうすけが帰ってくるから、あと少しだけ待ってもらえませんか?」  震える声で必死に懇願するさとりを、龍神はあの何を考えているのかわからない湖の底のような瞳で、じっと眺めていた。 「見るに耐えないな」  急に、空気が変わった。さっきまではあんなに暑かったのに、さとりと龍神の間にある空気が、ピリピリとしたまるで氷のようなものに変わってゆく。  さとりは、ああ・・・・・・と思った。もう二度と会えないであろうそうすけの姿を思い浮かべて、諦めたように瞼を閉じる。そのときだった。 「さと? 何してるんだそんなところで」  不気味なほど静寂に包まれていた空気が突然ぱんっと破られたように、蝉時雨が再び鳴り出した。 「そーすけ」  そうすけは、さとりと龍神の間に流れる不穏な空気と、地面に落ちたままの買い物袋に目を止めて、すっと目を細めた。 『誰だこいつ』 「そ、そうすけ・・・・・・!」  さとりは、そうすけをかばうように手を広げ彼の前に出た。  ーーお願い。そうすけには何もしないで。  必死な思いを込めたさとりの心の声を、龍神は聞こえているはずだった。  さっきまであんなに怯えていたのが嘘のように、身体の震えがぴたりと止まる。瞳を強くしてまっすぐに龍神を見ると、龍神はわずかに眉をひそめた。 『さと?』  自分を庇うようにして立つさとりを、そうすけが訝しんでいるのがわかったが、さとりはその場をどかなかった。 『ーー夏が終わるまでだぞ』  恐らく龍神が届けたに違いない、初めて聞こえてくる彼の心の声を、さとりははっきりと聞いた。さとりがこくりとうなずいたのを見て、龍神はふいに殺気を解いた。 「・・・・・・ない」 「え?」  そうすけが不審そうに眉をひそめる。 「人間、名前はない。さっき訊いただろう」 「え」 『は? こいつ何言って・・・・・・』 「そ、そうすけ・・・・・・っ」  さとりは慌てた。龍神が夏の終わりと期限を切った以上、いますぐそうすけにどうこうするとは思えなかったが、気が変わらないとは限らない。  龍神はふっと口元に笑みを浮かべると、驚いているさとりの目の前で、いまあらためて手の中の梨に気がついたとでもいうかのように首をかしげると、いきなりそうすけに向かって放った。 「わっ、な、なんだ」  そうすけが反射的に龍神の投げた梨をキャッチする。 「(さとり)。いいか、次が最後だぞ」 「はい」  さとりは、やや緊張した面もちでうなずいた。自分と龍神とのやり取りを、そうすけが不審に思っているのがわかった。 『こいつとさとはいったいどんな関係なんだ? さとりって? こいつはさとだろう? さとはなんでこんなに暗い顔をしている? てか、俺はなんでこいつらの関係がこんなに気になるんだ・・・・・・?』  混乱するそうすけの気持ちが伝わるたびに、さとりは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。でもいまはそうすけに構っている余裕はない。 「あんたいったい・・・・・・」 「そうすけ」  お願い、黙ってと言うように、さとりはそうすけの腕を引き、自分の手を彼の口元に当てた。 「さと?」 「・・・・・・あとで全部話すから」  ーーいまは黙っていて。  何のことだという顔をするそうすけに、さとりは目で懇願した。 『全部って・・・・・・話すって何のことだ・・・・・・?』 「人間。こいつに助けられたな」 「は? 何言って・・・・・・」  龍神がくるりと踵を返す。 「あっ、おい・・・・・・っ!」 『まだ話は終わってない』  龍神の後を追いかけようとしたそうすけを、さとりは引き止めた。 「ね、帰ろ?」  そうすけは一瞬迷うようなそぶりを見せたが、龍神の姿が見えなくなったほうにもう一度だけ視線をやると、諦めたようにうなずいた。

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