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第13話
気まずい空気のままエレベーターに乗り込み、互いに一言も口を開くことなく部屋に戻った。その間、さとりはそうすけの中で苛立ちや戸惑いが入り乱れていて、本人もその感情を持て余しながらも、決してさとりにぶつけないよう堪えているのがわかった。
玄関が開くカチャリとした音で、リビングで遊んでいた白いふわふわの妖怪が水を催促しにさとりのほうに寄ってこようとして、いつもと違う不穏な空気を敏感に感じ取り、部屋の暗がりへさっと逃げていった。
「それでさっきの怪しい男は誰なんだ」
『お前との関係はなんなんだ』
何の前置きもなく、そうすけが訊く。
「誰でもない。遙か昔から自然や大地と一緒に空気のように存在していて、あえて名前をつけるなら、神さまってやつだと思う。おいらたちは”龍神さま”って呼んでる」
「は? え、何言って・・・・・・」
想像していた話とは全く違ったのだろう、そうすけが戸惑いのこもった表情を浮かべている。
『神さま? え? は? 龍神・・・・・・?』
激しい混乱とともに、こいつ頭は大丈夫なのかというそうすけの思いが伝わってくる。
「ちょっと待ってくれよ、おいらたちって何のことだ? さと、お前いったい・・・・・・」
これからだ、とさとりは思った。そうすけに嫌われるのは、きっとこれからだ。
目を閉じ、息を深く吸い込んでから吐き出し、再び目を開ける。不安な気持ちを表には出さないよう、けれどそうすけに嫌われるかもしれない恐怖で手足が冷たくなる。
「おいらの名前はさとじゃない。本当は”覚”という妖怪です。そうすけに会いたくて、龍神さまにそうすけに会わせてくださいとお願いしてやってきた」
「妖怪? 何バカなこと言って・・・・・・」
『そんなものいるわけがない』
冗談だと笑い飛ばそうとしたそうすけは、さとりの深刻な表情を見て口を噤んだ。その表情が段々と冷静なものへと変わっていく。
『覚って確か人の考えていることがわかる妖怪じゃなかったか? ・・・・・・てか何本気にしてるんだよ。・・・・・・でも、そういえば前にひょっとしたらこっちの考えていることがわかるんじゃないかって冗談で思ったことはなかったか・・・・・・? 妖怪なんて、まさかそんなこと非科学的なことが・・・・・・』
そうすけがハッとしたように手で口元を覆い、さとりを見る。
『いま考えているのも全部こいつに伝わってるってことか・・・・・・?』
そうすけの瞳が微かな疑いから、ひょっとしたらという思いへ、それから確信へと変化してゆくのを、さとりは悲しい気持ちで眺めていた。
『ーーほんとにわかるのか? いま俺が何を考えているのか』
そうすけがじっとさとりを見る。さとりは拳をぎゅっと握りしめると、そうすけの目を見てこくりとうなずいた。驚きで、そうすけの目が大きく見開かれる。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
『頭がうまく働かない。あっ、これも全部聞かれているのか。まさかそんな・・・・・・』
そうすけの目に、怯えにも似た色がちらりとのぞいた。
さとりの胸を、深い悲しみが湧水のように満ちる。そのとき、そうすけが何かに気がついた。
『さっき俺に会いにきたと言ってたよな』
「ひょっとして前に会ったことがあるのか?」
さとりはうなずいた。そうすけの目が丸くなる。
「いったいいつ?」
「そうすけが、まだ小さかったとき。学校が休みだから、おばあちゃんちに遊びにきたんだって言ってた。茹でたトウモロコシを持ってきてくれて、一緒に河原で食べた」
『おばあちゃんち? トウモロコシ? 河原って・・・・・・』
そうすけの瞳が一瞬だけぼうっと過去へと遡って、やがてチカリと焦点を結んだ。
『それは覚えている。確か、年上のお兄さんと仲良くなったんだった。自分よりもずっと大人なはずなのに、どこか危なっかしくて、放っておけなくて、かわいくて・・・・・・、ガキのくせに自分が守らなきゃいけないような気がしてたんだっけ。でも、祖母が亡くなって、遺産問題で親戚同士揉めて、ほとんどあの家とは縁が切れたようになっていたから、子どもだった俺は会いにいくっていう約束を守れなくて・・・・・・。いま思えば俺の初恋だったのか・・・・・・』
・・・・・・初恋?
不思議そうに目をしばたいたさとりを見て、そうすけがわずかに顔を赤らめる。それから、いまようやくその考えに思い当たったとでもいうかのように、ハッとなった顔をした。
「・・・・・・あれはさとなのか?」
さとりはこくりとうなずいた。胸が震える。声を出したとたん、これまでおさえていた気持ちがどっとあふれ出てしまいそうで、一生懸命まばたきをしながら、涙をこらえる。
ずっとそうすけに会いたかった。そうすけと会えなくなって、ほかの妖怪たちには人間なんかを信じるからだと笑われたけれど、そんなことどうでもよかった。ただただ会いたくて、あのときの少年がもう一度会いにきてくれるってずっと信じていた。信じて、待ち続けた。
「おいら、おいら・・・・・・、そうすけにどうしてももう一度会いたかった。そうすけの声が聞きたかった。それまで、誰もおいらなんか見てくれなかったから、話をしてくれたのはそうすけが初めてだったから、ありがとうってずっと言いたかった」
ーーこれが最後だ・・・・・・。
悲しみが胸を刺し、それ以上に言葉にできない深い愛情が、さとりを満たした。
おいらはそうすけに会えて幸せだ。
さとりは微笑んだ。自分にはもう充分すぎるくらいだと思った。
会いたかったそうすけに会えた。もう一度会うことができたら、ずっと伝えたいと思っていたこともすべて言えた。でも、なぜ胸が痛むのだろう。ほかに何を望む?
「さと・・・・・・」
『ああ、違う、さとじゃない。さとりなのか・・・・・・』
わずかに眩しそうに目を細めたそうすけの手が、無意識にさとりのほうに伸ばされる。
触れたい、というそうすけの思いが伝わってきて、さとりは首をかしげる。さとりの正体がわかったら、そうすけが自分のことを受け入れてくれるなんて考えてもみなかったから。願うことすら分不相応な望みだと思っていたから。
『ああ、確かにさとはあのときの青年だ。さとりだ・・・・・・』
そのとき、ふたりの頭をよぎったのは、まだ小学生だったそうすけと、いまとほとんど姿が変わっていないさとりの姿だった。懐かしい故郷の景色がさとりの目に映る。
『あのころ、遊んだ後、別れるときはいつも後ろ髪を引かれるような気持ちになった。笑った顔がいつもどこか寂しそうで、放っておけなかった。側にいてあげたいと思った。祖母の家にいかなくなって、なぜかいつも心のどこかに忘れ物をしたような気持ちがした。あのときはどうしてそう思うのかわからなかったけど・・・・・・』
さとりだ、という喜びがそうすけの胸に満ちる。そのときさとりは、そうすけの心の目を通して、彼の目に映る自分の姿を見た気がした。
少しだけ不安そうに、戸惑った表情を浮かべて一途にそうすけを見つめる自分は、そうすけの愛おしい、触れたいという気持ちのフィルターを身にまとって、なんだか自分じゃないみたいに見える。
ふいに、そうすけが苦痛を堪えるかのように顔を歪めた。
「悪い、ちょっとだけ待ってくれ」
『俺はいま何をしようとした・・・・・・?』
ためらうように戻されるそうすけの手を、さとりは焦がれる思いで目で追った。
愕然とした表情がそうすけの顔に浮かぶ。そのとき、そうすけの瞳を横切った感情はなんだろうか。驚き? 痛み? 深い後悔? それから・・・・・・?
すべてが入り交じった複雑な感情の波がそうすけを襲い、打ちのめす。
『あれからずっと俺を待っていたのか。あの場所で何年もたったひとりで・・・・・・。約束を破った俺を・・・・・・』
そこにあるのは、約束を破ってしまった自分を責める後悔の念だった。深い苦しみがそうすけを襲う。
さとりはぷるぷると頭を振った。
違う、そうすけを責めたいのではなかった。そんなこと、これっぽっちだって望んではいない。
「そうすけ、違う。おいらは、おいらは・・・・・・」
けれど、自分の気持ちを伝えることに慣れていないさとりは、うまく言葉を見つけることができない。必死な思いですがりつくさとりを、そうすけがそっと引き剥がした。
「・・・・・・悪い。いきなりすぎて、まだ頭が追いついていないんだ。少しだけ考えさせてくれないか?」
ひとりになりたい、というそうすけの思いが伝わってきて、さとりはこくりとうなずいた。そうすけはさとりの横を通り過ぎると、そのまま寝室へと向かった。
『まさかさとが妖怪だったなんて・・・・・・。いや、違う、さとじゃない。さとりだ。俺のことをずっと待っていたというのか? たったひとりで・・・・・・。・・・・・・あいつは、あの感じの悪い男はさとりの仲間なのか? 俺よりもさとりのことがわかっているようだった。・・・・・・ひょっとしていまもこの考えが伝わっているのか?』
寝室からは、そうすけの苦悩と混乱が伝わってくる。
さとりは、そうすけが苦しんでいるのがつらかった。そう思わせているのは自分なのだ。そのことが何よりさとりの胸を苦しめた。そんな思いをさせたくて、そうすけに会いにきたわけじゃない。
聞いてはいけない、きっとそうすけは自分に考えていることを聞かれたいとは思っていない。そう思って耳を塞いでも、否応なしにそうすけの思いがさとりに伝わってきてしまう。
こんな能力などなければよかったのに。
さとりは生まれて初めて望まない自分の能力を憎んだ。
ーーおいらはここにいてはいけない。
白いふわふわの妖怪がさとりの足元で、遊べとぴょんぴょん跳ねる。
さとりは白いふわふわの妖怪をそっと撫でると、音を立てないよう静かに部屋を出た。
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