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第17話

4  びゅうびゅうと窓の外で風が唸っている。ガラス窓はガタガタと音をたて、まだ降り出していない雨は、嵐の前の静けさといった感じだ。白いふわふわの妖怪はベッドの下に潜り込んでその姿はさっきから見えない。さとりは不安な面もちで、窓の外を眺めた。  数十年に一度の大型台風は四国に上陸し、巨大な勢力を維持したまま、今夜未明から明朝にかけて西日本から東日本を北上するとみられている。 「ほ、ほんとうにこの中をいくの?」  いつもより早く家を出る準備をしていたそうすけは、心配するさとりに嫌な顔ひとつせず、 「タクシーを呼んであるから大丈夫だよ。まだ雨も降っていないし。それよりもさとりのほうこそ、ひとりで大丈夫か?」  と訊ねた。 「お、おいらは大丈夫。大丈夫だけど・・・・・・」  台風はこれまで何度だって経験している。けれど、こんなに不安な気持ちになるのは初めてだった。さっきからそわそわして落ち着かず、そうすけをひとりでいかせてはいけないという、胸騒ぎがする。 「お、お仕事、どうしてもお休みしちゃいけないの?」  珍しく聞き分けの悪いさとりに、そうすけはおや、という顔になった。 『さとりがこんなに我が儘を言うなんて珍しいな。そんなに台風が怖いのか?』  さとりはかあっと赤くなった。胸騒ぎがするからと言っても、信じてもらえるはずはない。さとり自身、うまくこの気持ちを説明できないのだ。 「仕事は休めないけど、ちゃんと留守番をしていたら、次の休み、ご褒美にアイスクリームを食べにいこう」  まるで小さな子どもにするみたいに、髪をくしゃっと撫でられて、さとりは黙った。 「じゃあいってくるな」  パタン、と玄関のドアが閉まる。そうすけが出ていって少したつと、さとりは買い物用に渡されていた財布を手に、彼の後を追って部屋を出た。  暗い空に、不気味な雲が渦を巻く。ぶんっ、と強風がさとりの前髪を上げたと共に、ひどく気持ちの悪い生ぬるい風が肌を撫でた。  さとりがマンションのロビーを出たところで、そうすけがタクシーに乗り込むのが見えた。さとりはきょろきょろとあたりを見回した。ちょうどよいタイミングで空車がきたので、手を広げて止まってもらう。 「あ、あの、すみません、乗せてください」 『きょうはもう店仕舞いにするつもりだったんだが』  中年の男の運転手はさとりを見て気が乗らない表情を浮かべたが、それでも渋々後部座席のドアを開けてくれた。 「お客さん、どこまでいくんですか?」 『近くならいいんだが』 「ま、前の車についていってください」 「はあ?」 『前の車を追えだって? 何かドラマの見すぎじゃないのか。あ~、ほんとについてないな。なんかヤバいことに巻き込まれないだろうなあ?』 「あ、あの、怪しいものじゃないです。えっとその、前の車に乗った人にちょっと用があって・・・・・・」  必死に言い訳すればするほど、ますます怪しくなることにさとりは気づいてはいない。しまいには運転手は沈黙すると、面倒なことに巻き込まれる前にとっとと下ろしてしまおうと、車を発車させてくれた。 『あーあ。ほんと勘弁してくれよなあ。ついてねえなあ・・・・・・』  ぽつん、と窓ガラスに雨が落ちてきたと思ったら、バケツをひっくり返したような土砂降りになった。たちまち視界は白く煙り、前が見えなくなる。 「あああ~。降ってきちまった・・・・・・。お客さん、傘を持ってないみたいだけど大丈夫ですかね」 『早く帰りたい』  さとりは前方に目を凝らして、そうすけの乗った車を見失わないようひたすら注意を向けていたので、運転手が希望のこもったまなざしでバックミラー越しにちらっと視線を向け、ため息を吐いたことにも気づかなかった。  雨風はますます強くなる。街路樹が折れそうな勢いで、風に揺れていた。そのとき、雲の隙間から、白銀に光る鱗のようなものがチラッと見えた。 「あっ!」  いきなり声を上げ、前の背もたれに身を乗り出したさとりに、運転手はぎょっとなった。 「ど、どうしたんですか!? な、何か・・・・・・!?」 『いきなりなんだよ』  いまのは龍神の鱗うろこだ、とさとりは思った。遠い昔、かつて一度だけ目にしたことがある、本来の龍の姿だ。その姿を見るのが、なぜいまなのか。単なる偶然なんて考えられない。  もしも龍神が告げた「そのとき」がいまならば、そうすけのところではなくさとりの元へとくるはずだった。   さとりはじわりと手のひらに冷や汗をかいた。嫌な予感はますます強くなる。  ピカッと空に稲妻が走った。もの凄い衝撃と共に雷がどこかへ落ちる。ビリビリビリッとした振動が身体に伝わった。 「ひゃあっ!」 『まじかよ。どこかへ落ちたぞ』  稲妻は下から上へ這うように昇る。そのとき、バーン・・・・・・ッと地を割るほどの地響きがした。 『これまじでやばくないか?』  ゴロゴロゴロ・・・・・・。再び稲妻が上空を這うように昇り、どこか近くへ落ちる。 『怖え怖え怖え・・・・・・勘弁してくれよ~、俺はまだ死にたくねえよ』  そのとき、車内の無線機から、この先で倒木があって進めないと連絡が入った。 「お客さん、すみませんね。この先の道を倒木が塞いでいるみたいですよ」 『だからこれ以上進むのは無理なんだよ。早く引き返すって言えよ』 「あ、あの、おいらここで降ります」 「え、こんなところで降りて大丈夫かい?」 『さっさとそう言えばいいんだよ。こいつが例え何か事故に遭ったって、俺のせいじゃない。こんな天気の中、外をふらふらしているほうが悪いんだ。自業自得だ』  金を払い、お礼を言ってタクシーを降りる。風がゴウゴウと唸りをあげている。叩きつけるような横殴りの雨風に、体重の軽いさとりはもっていかれそうになってしまう。気をつけないと、折れた傘や看板が飛んできてぶつかりそうになる。  説明のつかない不安と恐怖がさとりを動かしている。そうすけの無事な姿をひとめ見るまで、さとりは安心できなかった。  そのとき、ちょうどテレビ局の前でそうすけが車から降りる姿を見つけて、さとりはほっとした。  よかった。無事だ。  何気なく視線をこちらに向けたそうすけがさとりに気がつき、訝しげに目を眇める。 「・・・・・・さとり?」 『まさか。どうしてここに・・・・・・?』  最初は半信半疑だったそうすけの表情が、見間違いなんかじゃないと気がついて、驚きに変わる。 『ばっかやろう!』  そうすけは一瞬の迷いも見せず雨の中を飛び出してくると、ジャケットを脱ぎ、さとりの頭からすっぽりとかぶせた。あっという間に、ふたりは一ミリも乾いているところがないと思えるくらい、ずぶ濡れになる。 「こんなところで何してんだ! 危ないだろう!」 「そ、そうすけ。ごめんなさい。おいら・・・・・・」 「話は後で聞く。とにかくこっちだ!」  おろおろと言葉を探すさとりの肩を抱いて、そうすけは局のほうへと連れていこうとする。まさにそのときだった。  これまでとは比較にならない大きな雷が、さとりたちのいる場所からすぐ側の木に落ちた。地響きと共に立っていられないほどの衝撃を身体に感じる。木が燃え上がる。パパパ・・・・・・と周りのビルが次々に停電して、あたりは真っ暗になった。 「さとり、大丈夫か!?」 『ケガはないか!?』  さとりを抱き起こそうとしたそうすけが、その視線の先を追って、真っ暗な空を見上げた。 「・・・・・・龍、か・・・・・・?」  上空を埋め尽くすほどの巨大な龍が、湖の底のような冷たい瞳でじっとさとりたちを見下ろしている。  まさかそんなものが、というそうすけの恐怖にも似た思いが伝わってくる。さとりの言葉を疑っていたわけではないが、実際に目にしているものが信じられないのだろう。 「龍神さま・・・・・・」  さとりの呟きに、そうすけはハッとなった。 「まさか本当に龍なのか・・・・・・?」 『龍神って、こないだの男か・・・・・・? 何かの間違いなんかじゃなく・・・・・・?』  氷のような透き通った龍の瞳がさとりを見ている。白銀の睫毛が、ゆっくりとまばたきをした。  さとりはついに「そのとき」がきたのだと悟った。  胸が苦しい。とっくに覚悟はできていたと思ったけれど、そうすけのことを好きになればなるほど、もっと一緒にいたいとさとりは欲張りになった。  誰かをこんなに好きになれることがあるなんて思わなかった。好きになったら、胸が痛くて、会えない時間はただ切なくて、楽しいことばかりじゃなかったけれど、そんなことさえさとりはそうすけに会って初めて知った。  生まれてきた意味を見つけられず、何のために生きているのかさえわからず、ただ無為に日々を過ごしていたちっぽけな妖怪が、そうすけに出会って、知ったさまざまなこと。毎日がこんなにもキラキラしていて、愛おしく、輝いていた。  まさか同じように、そうすけに気持ちを返してもらえるなんて思わなかった。そんな出来事が、自分の身の上に起きるなんて。  さとりにとって、そうすけと出会えたことは、まるで奇跡みたいな出来事だった。  大好きで、大好きで、さとりの何よりも大切なもの。  ーーどうかいつまでも元気で幸せでいて・・・・・・。 「そうすけ。いままで本当にありがとう。おいら、そうすけに会えて幸せだった」 「・・・・・・さとり?」  昔そうすけからもらった石で作ったネックレスを外し、彼の手のひらにのせた。 『・・・・・・いったい何を言ってるんだ?』  普段とは違うさとりのようすに、そうすけが不安を滲ませる。 【ーーつまらぬ】  ビリビリビリ・・・・・・、と空気を震わす振動と共に、そのとき声がした。 【ちっぽけな妖怪がすべてを捨ててまで望んだものの結果がそれか】  龍神さま・・・・・・? 【人間なんぞに最初から期待を持ってはいなかったが、あまりに想像どおりでつまらぬ】 「すべてを捨ててまで望んだものっていうのは何だ?」  すぐ側から聞こえてきたそうすけの言葉に、さとりはハッとなった。見れば、そうすけは訝しむようにさとりを見ている。その答えをさとりが知っていると確信しているかのように。  さとりは真っ青になった。龍神との契約を知ったら、そうすけはやさしいからきっと自分に責任を感じてしまうだろう。 「な、何でもない」 「・・・・・・さとり?」  慌てて頭を振るさとりの頭上から、雷鳴のようなその声が響く。 【ーー人間。そのちっぽけな妖怪はお前に会いたくて、私と契約を結んだのだよ。もしもお前がすべてを捨ててまでそのモノを必要だと思えないときは、そのちっぽけな妖怪は消滅するだろうと】  龍神の言葉に、そうすけは顔色を変えた。愕然としたように、さとりを見つめる。 「本当なのか?」  そうすけにすべてを知られてしまった。そうすけにだけは、決して知られたくなかったのに。  さとりは唇を噛みしめ、うつむいて頭を振る。  さとりの望みは、そうすけにもう一度会うことだった。会って、その声を聞いて、できることならばほんの少しだけ一緒にいられたら、それで充分だった。少しの憂いも、そうすけには残したくなかった。さとりのせいで、悲しんでなんかほしくなかった。これまで誰にも必要とされたことのないさとりは、それが可能だと信じていた。ひとが誰かと出会い、互いに影響を与え合うことは、そんな一方的なものではすまないことを、さとりは知らなかった。 「なんでそんな勝手なことを・・・・・・! さとり・・・・・・っ!」 『さとりにとって、俺はそんなものだったのか。そんな簡単に割り切れるほどちっぽけなものだと思っていたのか。お前がいなくなっても、何も感じられないでいられると思うくらい・・・・・・』  そうすけがさとりの腕をきつくつかみ、激しくその身体を揺さぶる。傷ついたそうすけの声が、さとりの胸をこれでもかというくらい苛んだ。 「愛していると言った俺の思いは、お前に何も伝わっていなかったんだな・・・・・・」 『いや、違う、俺がそう思わせたのか・・・・・・?』  ふいに、さとりを見つめるそうすけの顔がぐしゃりと歪んだ。雨なのか涙なのかわからないものがそうすけの頬を濡らす。  ーーそうすけが傷ついている。  そうすけを傷つけているのは自分なんだ、という思いに至ったとき、さとりの鼓動はどくん、と跳ねた。がくがくと身体が震える。自分は何かとんでもない間違いをおかしたのだと、さとりは気づいた。 「・・・・・・そーすけ」  氷のような龍神の瞳が、底光りするようにすっと細くなった。 【ちっぽけな妖怪がひとり消えても面白くも何ともないわ。ーー代わりに、その人間を連れていこうか。その人間を失った時間を、その後お前はどう過ごす?】  肌に触れる空気に、ピリピリとした殺気が満ちる。  さとりは、ハッと顔色を変えた。とっさにその背中にそうすけを庇うように、手を広げ、彼の前に出る。 「そんなの約束が違う」  氷のような瞳を睨むように見上げ、さとりは初めて己の運命にあらがう。 「さとり、止めろ」 『そこからどくんだ』  そうすけが後ろから力づくで止めようとする。引き戻されても、その背中に庇われようとしても、さとりは地面に這いつくばるようにして、決してその場から動かなかった。  自分はどうなってもいい。こんな命、なくなっても構わない。もしも、そうすけがこの世から消えてしまったらーー・・・・・・。  目の前が暗くなるような絶望が胸を塞ぐ。 「・・・・・・いや。助けて。そうすけを助けて」 【愚かなものだ】  ふたりを見下ろす龍神の瞳が、一段と冷ややかになった。 【人間なんかを思って何になる。自分たちのことしか考えず、平気でひとを裏切る。そんなものを信じて何になる。こいつはお前を置いていくのだぞ】  さとりに訊ねながら、さとりはなぜか龍神が自分のことを話している気がした。  龍神さまはそうだったの? 誰かに裏切られたの? そのとき傷ついたの? そう思ったけれど、もちろんそんなことは訊ねられなかった。  さとりは静かに頭を振った。そんなことはないのだと、心が告げている。自分はそうすけを好きになって、何ひとつ後悔などしていないのだとーー。 「それでもいい。それでもいいの。いま、一緒にいられたらそれで充分なの。一生分の幸せを、おいらはそうすけからもらったから」 「さとり。止めろ。そこをどくんだ」  そうすけが無理矢理自分の背後に庇う。さとりは無我夢中でそうすけに抵抗した 「お願い、龍神さま。おいらはとっくに覚悟ができているから。どうか、どうかそうすけだけは助けて・・・・・・!」 「いい加減にしろ!」  そうすけがぴしゃりとさとりの頬を叩く。さとりはびっくりして、目をまん丸くした。 「何度言ったらわかるんだ! お前が思うのと同じように、俺だってお前のことが大事なんだよ! お前を守りたいんだ! それがなぜわからない!」 『ばかやろう!』  胸がぎゅっと苦しくなる。こんなときなのに、さとりはそうすけの気持ちをうれしいと思った。 「そうすけ・・・・・・」  ためらいながら、さとりはそうすけの手に触れた。その手を、そうすけが迷わず握り返してくれる 「おいっ! あんた神さまなんだろ! なんでもできる力持ってるんだろ! だったら助けろよ! 出し惜しみしてんじゃねえよ!」  そうすけがいきなり龍神に向かって叫んだので、さとりはぎょっとした。 「そ、そうすけ・・・・・・っ!?」

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