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おまけSS「おとぎ話のそれから」
数日前からさとりのようすがおかしい。
本人は、壮介に気づかれていないと思っているようだが、はっきり言ってバレバレなのである。
こそこそとこちらのようすを窺っているかと思えば、ひとりで楽しそうにくふくふ笑っていたりする。いったいこのかわいい頭の中に何を隠しているのかと、ここ数日壮介は気になって仕方がなかった。
「あともうちょっとで朝ご飯ができるから待っててね」
さとりはキッチンからひょっこり顔をのぞかせると、その姿はまた見えなくなった。かつては長い前髪で隠していたきれいな瞳が、いまははっきりと見ることができる。さとりから前髪を伸ばしていた理由を初めて聞いたとき、そうすけは内心ひどく憤った。それと同時に、胸の奥が締めつけられるほどの痛みに襲われた。
なぜあのとき自分は、さとりとの約束を守れなかったのだろう。たとえまだ幼い子どもだったとしても・・・・・・。
コーヒーの芳ばしい香りが鼻先をかすめ、壮介はリビングのソファから立ち上がった。キッチンではさとりがまだ覚束ないようすで、けれど丁寧な手つきで朝食を作っている。
「これ向こうに運ぶよ」
皿を手に取り、さとりの滑らかな頬に、かすめ取るようなキスをした。
「ひゃうっ」
さとりの耳たぶから首筋までが、さっと刷毛ではいたように淡く染まった。その変化は、それまで固く閉ざしていた蕾が一気に花開くように鮮やかだ。さとり本人は意識をしていなくても、だからこそにじみ出る色気に、壮介はわずかに目を瞠る。
あー、せっかくの休み、ベッドへ戻って一日中さとりをかわいがりたい。色っぽくて、たまらず愛しい恋人を、抱きつぶしたい。かわいい声で鳴かせたい。
「そ、そ、そ、そうすけ・・・・・・っ?!」
華奢な身体を背後から抱きしめると、さとりの身体から花のような甘い匂いがした。
あ、やべ。まじたちそう。
壮介の心の声を読んださとりが、真っ赤な顔でわたわたと腕の中から逃げようとする。けれど、片手にはフライパンを、もう片方の手には菜箸を持っているため、思うように動けないのだ。
「なあ、ほんとにひとりで大丈夫なのか? 休日だからいつもより人が多いぞ。さとり、人混みが苦手だろう。また具合が悪くなったらどうするんだ?」
きょうは壮介の仕事が休みとあって、昨夜はベッドの中で散々さとりと愛し合った。瞼をとろんとさせたさとりの額にキスを落としつつ、壮介はあしたの休みはどうするかを訊ねた。実はこれまでほとんど出かけたことがないさとりのために、壮介は水族館の前売り券をこっそり買っておいたのだ。数ヶ月前、リニューアルした水族館では、巨大水槽の中を泳ぐペンギンがまるで都会の空を飛んでいるように見えるという。さぞや喜んでもらえるだろうと思いきや、さとりはいまにも眠りに落ちそうだった目をパッと見開くと、ぷるぷると頭を振ったのだった。
ーーおいら、あしたはちょっと出かけてくるね、と。
まさか断られるとは思ってもみなかった壮介が、どこへいくのか訊ねると、さとりは視線をさまよわせた。それから困ったように小さくほほ笑んで、「秘密」と答えたのだった。
「ほら、この間言っていたアイスクリーム屋さんに帰りに寄ってもいいんだぞ。さとり好きだろう、アイス」
さとりの後頭部に鼻をうずめながら、壮介は甘えるように訊ねる。さとりが自分のこのしぐさに弱いと知ってのことだ。
「だ、だいじょうぶ! おいらひとりでもいけるよ!」
するりとそうすけの腕の中から抜け出たさとりは、吹き荒れるそうすけの胸中を知ってか知らでか、フライパンの中身を皿に移すと、
「お待たせしました。朝ご飯食べよ?」
にこにこと笑ったのだった。それから足下を見て何かに気がついたように、小さな小皿に水を入れる。小皿を床に置いてやるのを見て、壮介はさとりが前に言っていた、白い妖怪か、と思った。いまもいるであろうその姿を、けれど壮介はこれまで一度も目にしたことがない。
そのときだった。小皿の近くに、何か白い綿毛のようなものが一瞬だけ見えた気がした。
壮介はごしと瞼をこすると、パチパチと瞬きをした。
気のせいか・・・・・・?
フローリングの床には、相変わらず小皿に入った水があるだけだ。
「そうすけ?」
「ーーいや。何でもない」
壮介は首を振った。朝食の準備ができた皿を手に取ると、不思議そうな顔をしているさとりをリビングへと誘った。
肌を撫でる秋の風が気持ちいい。ぐんと遠くなった空は、薄いブルーだ。
「あ! 荻上壮介だ!」
という声が聞こえてくるたびに、壮介は首に巻いたショールにこそこそ顔を埋めた。頭には帽子、顔にはサングラスと、普段はプライベートでもしない明らかな変装だ。ただし、相手は自分が「アナウンサーの荻上壮介」だと知るファンに向けてのものじゃない。視線をそうっと上げると、自分の数メートル先を歩くさとりが気がついたようすはなかったので、壮介は胸をなで下ろした。
さとりに誘いを断られたことが思いの外ショックだったことに、壮介は気づいていた。どこへいくのかと訊ねても、答えてもらえなかったことも。
普通に考えて、秘密のひとつやふたつ、誰だって持つのは当然だろう。もちろん、壮介はさとりが浮気をするなんてことはこれっぽっちも疑ってはいない。疑ってはいないのだがーー。
だって初めてなのだ。さとりが自分に対して「秘密」を持つことは。
だからって後をつけるかよ・・・・・・。
壮介は思慮に欠けた自分の行動に呆れつつも、前方のさとりに視線をやった。そのさとりはといえば、落ち葉を踏む音に、にこにこと笑ったかと思えば、何かを見て驚いたようにあんぐりと口を開けたりしている。一度小さな犬に「キャン!」と吠えられたときは、びくっとしたことを飼い主に謝られ、反対に米搗 きバッタのようにぺこぺこと頭を下げていた。・・・・・・あー、くっそかわいい。
いっそのこと、さとりに声をかけて後をつけてきたことを詫びようかと、壮介が考えたときだった。ひとりの男がさとりの腕を取り、何かを話しかけている。茶髪にピアスをした、ちゃらちゃらとした若い男だ。真っ赤な顔をしたさとりがぷるぷると頭を振る。けれど、男はさとりの腕を捕らえて離さない。一生懸命に何かを話すさとりを見つめる男の顔は、ぼうっとさとりに見とれたように、わずかにその頬が赤い。
あー、ばかくそやめろ! 俺のさとりに近づくんじゃない!
それ以上我慢ができず、壮介が飛び出そうとしたまさにそのとき、さとりが男から離れた。そんなナンパ男、蹴り倒しても罰は当たらないだろうに、少し離れた壮介の場所からでも、さとりが男に丁寧に頭を下げているのがわかった。ナンパ男はもう一度だけ名残惜しそうにさとりを見てから、その場を去った。
「何をしてるんだかなあ、俺は・・・・・・」
壮介はため息ともつかない言葉をぽつりと漏らした。帽子を取り、くしゃくしゃっと髪をかきまぜる。なんだか急に自分が恥ずべきことをしたような、後ろめたい気持ちになった。
見れば、さとりは何やらうきうきとしたようすで、どこかへ向かっている。ーー自分の知らない場所へ。
目的地がはっきりしているのか、その瞳はきらきらと輝き、足取りは軽く、そして力強い。
「帰るか・・・・・・」
壮介はひとつ呼吸を吐くと、それまできた道を引き返した。さとりと暮らす、自分たちの家へと。
さとりが帰ってきたのは、それから一時間も経たないころのことだった。平日はさとりが引き受けてくれている風呂掃除をすませ、壮介がキッチンでコーヒーを入れていると、カチャカチャと鍵を開ける音が聞こえた。玄関までさとりを出迎えにいく。
「おかえり」
まさか壮介がいると思っていなかったのか、さとりはその場でぴょこんと飛び上がるほどにびっくりしてから、慌てたように何かを後ろ手に隠した。
「た、ただいま!」
その態度は明らかに不自然だ。
・・・・・・なんだ?
壮介はわずかに目を細めた。それ以上は突っ込まずにリビングへと向かうと、背後でさとりがほっとしたような気配がした。
・・・・・・なんだよ。そんなに知られたくないのかよ。
胸の中に、ちくんと小さな棘が刺さる。こんなことぐらいで子どもみたいに拗ねている自分が嫌だが、苛立つ気持ちはどうしようもできない。
「そ、そーすけ・・・・・・?」
苛立つ壮介の感情に、さとりが戸惑っている。まずい、落ち着かなければと思っても、どうしようもなく心が波立った。ざわざわとして、落ち着かない。
コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いで、ひとくち飲んだ。そうしている間にも、早く気持ちが平静になれと念じる。
「あ、あの、おいら・・・・・・」
さとりは、おろおろとそうすけを見ている。
何か知らぬ間にそうすけの気持ちを害してしまったただろうか? また何かおかしなことをしてしまっただろうか?
さとりの瞳は、心を映す純粋な鏡だ。たとえ相手の心なんか読めなくったって、壮介はそのときさとりが何を考えているかがわかる。
不安に揺れるさとりの瞳を見て、壮介は舌打ちした。マグカップをカウンターの上に置くと、さとりを抱きしめた。
「・・・・・・ごめんな。ちょっとだけ苛々していた。お前は何も悪くないよ。すべて俺が悪いんだ」
「そうすけ・・・・・・?」
さとりが壮介のほうへ顔をかたむけた。
さとりの身体がわずかに放つその匂いを嗅ぐと、壮介はそれまで苛立っていた自分の心が次第に落ち着いてくるのを感じた。それは壮介の腕の中にいるさとりにもわかったのだろう。身体から緊張を解いたさとりが手を伸ばし、壮介の頬に触れる。
「あ、そうだ! あのね、おいらね、そうすけに渡すものがあるの」
ぴょこんと跳ねるように、さとりの髪が揺れる。仕方なく壮介が身体を離すと、さとりはそれまで後ろ手に隠していた小さな包みをおずおずと差し出した。
子どもが喜びそうなファンシーなイラストが描かれたラッピングペーパーに包まれた細長いものは、不格好に赤いリボンが結ばれている。
「・・・・・・これは?」
壮介が訊ねると、さとりはちょっとだけ恥ずかしそうに、けれど花のようにふわりと笑った。
「そうすけ、おたんじょうびおめでとう! こういうとき、人間はぷれぜんとを贈るんでしょう? ドラマで言ってた」
・・・・・・誕生日? 壮介の誕生日はバレンタインデーと一緒だ。まだ三ヶ月以上も早い。
「・・・・・・さとり、おまえそれをどこで知ったんだ?」
さとりの気持ちを傷つけてしまわないよう、けれど事実だけは確認したくて壮介が訊ねると、さとりは小さく首をかしげた。
「前にお掃除をしていたら、そうすけが載っている本を見つけたの。それに書いてあった」
さとりの言葉に、そうすけは思わず顔をしかめてしまった。なぜなら、さとりの言う雑誌に心当たりがあったからだ。
それはまだ壮介がアナウンサーになったばかりのころ、プレゼント特集だかなんだかの女性誌の取材を受けたことがあった。自分には関係がないから断りたかったのだが、仕事上のつきあいで断れなかったのだ。しかも、誕生日が間違った情報で載ってしまい、その後局に女性ファンからのプレゼントがたくさん届いてしまったといういわくつきのものだ。一度パラリと目を通して新聞広告と一緒に捨てたつもりでいたが、あれがどこかに残っていたのか? しかもそれをさとりに見られていたとは。決して見られて困る内容ではないとはいえ、若いときの恥部を知られたようでなんだか居心地が悪い。
「そ、そーすけ・・・・・・? あの、おいら・・・・・・?」
壮介の表情に、さとりは瞳を曇らせ、おろおろする。自分はまた何か失敗をしてしまっただろうかと、その瞳が告げている。
そのとき、壮介はハッと我に返った。さとりが自分の誕生日を勘違いしたというのなら・・・・・・。
本来なら包むものではないものを無理矢理ラッピングしたような、不格好な包みに目を落とす。
「・・・・・・開けていいか?」
壮介が訊ねると、さとりはホッとしたようにうなずいた。
「う、うん!」
赤いリボンをそっと解き、包み紙が破れないように慎重にセロハンテープを剥がす。包み紙の中から出てきたのは、どこのコンビニや文房具店にでも売っていそうな、青い水性のボールペンだった。
「あ、あのね、おいらずっと考えていたんだけど、そうすけが何を欲しいかわからなくてね、でも、こないだそうすけが「ペンがない」って言ってたでしょう? だからおいら、あのね・・・・・・」
どきどきしたようすで、たどたどしくプレゼントの理由を告げるさとりに、壮介は目を瞠った。
思い出すのは、ここ数日、いつもとは明らかに違うさとりの態度だった。そわそわと何かを隠しているかのように、けれどこらえきれず、くすくすと楽しそうに笑っていた。いったい何をプレゼントしたら自分が一番喜ぶのか、きっと一生懸命考えてくれたのだろう。普段は苦手な外出も、壮介を喜ばすためにがんばってくれたのだろう。
壮介は、かあっと赤くなった。慌てて口元を手で覆い隠すが、胸にこみ上げる熱い思いは隠しようがない。深い感動が、壮介の胸をあたたかく満たしていた。
「・・・・・・ありがとう、さとり。これまでもらった中で、最高のプレゼントだよ」
さとりが恥ずかしそうにくふくふと笑う。ぎゅっとさとりを抱きしめると、今度は逃げることなく壮介の腕の中に収まってくれる。
さとりはそうは思っていないようだが、実のところ、壮介はこれっぽっちだって自分の選択を後悔なんかしていなかった。
壮介にはたとえ人間じゃなくなったとしても、それがなんなのだという開き直ったような思いがあった。家族にはさすがに申し訳ないと思うが、幸運なことに去年五歳下の妹が子どもを生んだ。壮介がいなくても大丈夫だろう。
唯一後悔することがあるといえば、いつか果たせなかった約束で何年もさとりをひとりぼっちにさせてしまったことだ。けれど、これからはさとりをひとりにすることは決してない。
ただし、壮介は現実的な性格なので、稼げるうちは稼がせてもらおうという腹積もりもあった。何せこの先がどうなるかまったくわからないのだ。さとりを幸せにするためにも、あるべきものはあったほうがいいだろう。
これまで長い時間をひとりで生きてきたというさとり。壮介は自分がさとりの居場所になれればと思っていた。もう二度と離すつもりはないーー。
そのとき、さとりの足下で、白い綿毛のようなものが、ぴょんぴょんと跳ねているのが見えた。まるで何かを主張しているかのように見える。目を擦ってみても、それは消えることなく確かに存在しているのがわかる。
「そうすけ?」
ふっと鼻で笑った壮介に、さとりが不思議そうに首をかしげる。壮介はさとりの顎を軽く持ち上げると、その唇に自分のそれを重ね合わせた。目元を淡く染めたさとりが、伏せた睫毛をかすかに震わせる。
それからしばらく後、局の女子社員の間で、人気アナウンサーの荻上壮介が、どこにでもあるような安っぽい水性ボールペンを大事そうに胸のポケットに差し、ときおり手に取っては、にまにまと眺める姿が目撃されたというが、それはまた別の話。
おしまい
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