＊＊＊ 　会社の前の道路に横付けされた、四菱ふそうの派手なデコトラに宮本が手をかけながらよじ登って助手席に乗り込むと、お疲れさんと一言だけ兄貴は呟いた。トラックが発進すると腹に響く重低音が車内に鳴り響く。 　無言の車内に派手なアニソンが流れるせいで、微妙な空気がそこはかとなく流れた。 （兄貴ってば、アニヲタだったのか？　トラックが痛車仕様じゃないのが、せめてもの救いだ） 　やがてちょっと先にあるキャンプ場の駐車場に停車し、トラックを先に降りた兄貴がこっちに来いと手招きした。 　キャンプをするには季節外れなので誰もいず、辺りは気味が悪いくらい静まり返っていた。森の奥から何かの鳴き声がするのだが、それがさらなる恐怖心を煽る。 　その様子におっかなビックリしながら歩く宮本は、平然と森の中を進む兄貴の後ろを追いかけた。 　すると目の前に大きな湖が現れた。水面に三日月が映りこんでいて、ほのかに明るい景色に内心ほっとする。 「江藤ちん、見合いするんだってな」 　湖のさざ波を見つめた兄貴が、独り言を呟くように告げてきた。 「ああ……」 　それにたいして多くを語れない。もともと決まっていたらしい話だし、実際のところただの後輩の自分から、見合いをするなとは言えない話だった。 「おまえさ、何をやってんだ。江藤ちんのことが好きなんだろ？」 「……兄貴には関係ねぇだろ」 「そんな冷たいことを言ってくれるな。好きだったヤツが幸せになる姿を、見たいと思っちゃ悪いのか？」 　切なげに告げられたセリフに、宮本の胸がしくしく痛んだ。昔、関係があったからこそ、そう思うのは当然のことだろう。頭では分かっているものの、気持ちの整理がうまくつかない。 「江藤ちんと俺が別れた理由（わけ）、何か聞いてるのか？」 「聞いてない。ちょっとだけ口出ししたら同情すんじゃねぇって怒鳴られたし、それ以上聞くことができなくなった」 「どうにもおまえは一言多いからな。俺は慣れたところがあるけど江藤ちんのあの性格じゃ、受け流すことはできないか。不器用なヤツだから」 　懐かしさを滲ませた声色で、ふたりが一緒に過ごした日を思い起こさせる。 　角刈りな上に見た目が強面で性格も体格も大柄な兄貴と、俺様気質の細身なイケメン江藤さんが付き合った馴初めについて、俺は何も知らないけれど、傍から見るふたりはとても仲良さそうだった。 　だから高校生のとき家の前にいた悲壮な表情を浮かべた江藤の口から、ケンカという言葉が出てきたのは結構衝撃的だったんだ。 「江藤ちんは俺様で不器用なくせに、困ったヤツを見ると助けずにはいられない優しさがあってさ。デートをしているのに、中断したことが何度もあったんだ。最初のうちは、お節介焼きだなって笑っていられたんだけど……」 　肩を落としながら吐き捨てるように言う兄貴の横顔を、そっと伺いみる。つらい内容を口にしているせいか、いつものおちゃらけた雰囲気を一切出さない、恋に悩んだひとりの男の姿がそこにあった。 「江藤さんのお節介を、俺もまんまと利用したよな。お蔭で成績が上がったけど、兄貴としては複雑だったろ？　顔に出ていたし」 「まあな。自分の恋人が弟と仲良くしているところは、あんまり見たくないものさ。それはおまえだけじゃなく、他のヤツにたいしてもだけどな」 　兄貴の言葉を打ち消すように、目の前から冷たい風が吹き抜けてきた。水面に映っていた三日月がさざ波によって一瞬歪んだけれど、ほどなくして綺麗な姿形を再び浮かび上がらせる。 「別れるときに言われたアイツの言葉が、今でも忘れられなかった。そのせいか現在進行形で、独り身状態を継続している。バカみたいだろ？」 　辺りの静けさを打ち消すためなのか、自分のことをあざける兄貴に何て声をかけていいのか分からない。こういうときだからこそ慰めるのは逆効果だと考えたので、疑問をそのまま口にしてみた。 「江藤さんの言葉って？　想像するだに、かなりキツいことを言ったんだろうな」 「あー……。何ていうか、あの頃の俺にはキツく感じたけど今なら平気なんだ。それを言わせた原因を作ったのが、俺のワガママだったのもあるし」 「へぇ。兄貴が江藤さんに、何かワガママを言ったのか」 　長男気質の兄貴は、ほとんどワガママなんて言わなかった。その分、弟の俺のワガママをよく聞いてくれた。だからなおさら、兄貴がワガママを言ったというのが信じられない事実で―― 「恋人という対等な立場なんだから、ワガママのひとつくらい言うだろ。正晴のことを独り占めしたい。俺だけのものになってくれってな」 　告げられたセリフに、なぜだか既視感を覚えた。 　兄貴の口から江藤の下の名前が出たせいで、宮本の胸の中に何とも言えない嫌なもやもやが浮かび上がる。 　この感じはそう――恋心を自覚したきっかけになった出来事。兄貴の腕の中に抱かれた江藤を見た、あの日の感情と同じなんだ。 「江藤ちんに分かるように、俺としては説明したんだけどな。俺様はおまえのものになっているのに何を言ってるんだよって、話が一方通行になってさ。説得するのもほとほと疲れ果ててしまって、別れることになったんだ」 「石頭なところがあるからな、江藤さん」 「ほんと、それ。だけどあの頃の俺も、相当意地になっちゃってさ。「せいぜい笑顔を振りまいて、誰にでもお節介を焼けばいいんだ」なぁんて捨て台詞を吐いてしまった。大好きだったヤツを傷つけたくなかったのに、バカみたいだ……」 　悔しそうに告げながら、足元に落ちていた小石を湖に向かって蹴り上げた。月明かりを浴びた白っぽい小石が放物線の弧を描くと、ぽちゃんという音と一緒に吸い込まれるように水面に沈む。 　――兄貴の投げつけた言葉のせいで、江藤さんが変わってしまったのだろうか。それなら今の態度に納得がいく……。 　江藤の言葉がいまだに胸に残っている兄貴と同じように江藤自身も兄貴の言葉に傷つき、その結果が現在のような厳しい態度をわざと作っているのかもしれない。 （俺としては昔のように、いつでも笑っていてほしいのにな――） 「江藤ちん、見ての通りすっげぇ意地っ張りだし、結構鈍いところもあるよな。言わなくても、そこんとこ分かってるだろうけどさ」 「…………」 　日頃の江藤の態度について考えていたため、半分くらいしか兄貴の言葉が理解できなかった。真剣に語っている手前、聞き返すのも失礼だと思ってそのまま耳を傾けてみる。 「昨日、居酒屋で顔を突き合わせた途端に「取引先のご令嬢と見合いして、めでたく結婚するかもしれない」なぁんて勝手に話をはじめてさ。俺に向かって、うれしそうにほほ笑んだんだ。アイツ、口元だけで笑って、目が笑っていなかったんだよ」 　語尾を掠れた声で告げると、つらそうに顔を歪ませながら俺の両肩を掴んでくる。その力が半端ない状態で、痛くて堪らなかった。 　熱くなりまくる兄貴とは対照的に、湖から頭を冷やすような風がふわりと吹き込んでくる。その風を受けて兄貴が少し冷静になればいいのにと、もうひとりの自分が心の中で言った。 「おまえが止めなきゃ江藤ちん、見合いしてこのまま結婚するぞ」 「だって俺はただの後輩なんだ。江藤さんと関係を持ったのだって１度きりだし、そのことを向こうはまったく覚えていないし……」 （俺のことなんて、どうでもいいのかもしれない――） 「だったら思い出させればいいだけの話じゃないか」 「それって、ぶん殴って襲えばいいのかよ？」 　目が合っただけで不快感を示すように、眉間にシワを寄せる人なんだ。簡単に近づくことすら、難しいというのに。 「まったく。おまえといい江藤ちんといい、本当に過激だなぁ。だったらさ、これなんかどうだろう？」 　兄貴は俺を掴んでいた両手を胸の前で組むと、ほくそ笑みを浮かべながら作戦を考えてくれた。その様子がどこかいたずらっ子みたいに見えるのは、気のせいなんかじゃない。まさに、いたずらじみた作戦だから。 「……その作戦って、江藤さんがキモなんじゃないのか？」 　ものの数秒で思いついた兄貴の考えに、どうにも不安が拭えなかった。 「大丈夫。江藤ちんはこれで絶対に気がつくはずだ。だから見合いは壊れる！」 　自信満々な顔して右手を差し出してきた兄貴に、恐るおそる握手した。 　こうして一抹の不安を抱えながらお見合いをぶっ壊す作戦が、兄貴の手によって実行されることになったのだった。