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第12話
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”運命のつがい”。
アオが初めてその言葉を聞いたのは、いつのことだろう。おそらくアオが無邪気な子どもでいられたとき。アオにはまだ両親がいて、リコなんかもまだ本当に小さくて、目の中に入れても痛くないくらい、かわいかったころのことだ。
ーーいい、アオ。この世界のどこかにはね、みんなそれぞれ”運命のつがい”が存在しているの。その人に出会った瞬間にね、わかるんだそうよ。ああ、この人が自分の運命の相手なんだって。
安心できる母の膝の上で、アオはやさしく髪を撫でる感触に目を細めた。
だったらぼくにも運命のつがいがいるの?
わくわくしながら訊ねたアオに、母は、ふふっと笑って、いるわよと答えてくれた。いつかきっとアオは運命のつがいの相手に出会って、必ず幸せになれるわ、と。
幼いアオは、純粋に母の言葉を信じた。それがどんなに難しいことかは知らず、いつか自分の運命のつがいに会えるのだと夢見ていた。
アオは、ベータ同士の両親から生まれた、いわゆる「鬼っ子」というやつだ。通常、ベータ同士の親から生まれる子どもは、高確率でベータだ。アオが生まれたとき、もともと私生児である母との結婚をあまりよく思っていなかった父の両親は、父に母と別れ、良いところの娘と再婚するよう勧めたという。
ーーお前なんて生まれてこなければよかったのに!
両親を不慮の事故で亡くしたとき、アオは病院へ駆けつけてきた父の両親に初めて会った。幼いリコを抱えてショックで茫然とするアオに向かって、祖父母は憎しみのこもった言葉を投げつけた。それは呪詛だった。
祖父母は父の遺体だけを引き取ると、アオたちが葬儀に参加することはもちろん、それ以降、一切の関係を絶った。父が眠る墓の場所さえ教えてはくれなかった。母の遺体は、市営の集団墓地へと埋葬された。単独の墓を建ててあげられるだけの余裕はアオたち兄弟にはなかったのだ。
葬儀の日は、雨が降っていた。
ーーアオ? アオ、だいじょうぶ?
アオとつないだ手と反対側のリコの手には、野原で摘んだ花が握りしめられている。声を殺して泣くアオを見て、リコがぐしゃりと顔を歪めた。
ーーアオ。泣かないで。アオはぼくが守るから。アオ・・・・・・。
しまいには堪えきれずに泣き出してしまったリコの身体を、アオはぎゅっと抱きしめた。
足下の小枝を踏むパシッ、という音で、アオはハッと我に返った。
冬枯れの庭は花や緑などの色味が少ないため、寒々しく見える。アオは庭に置かれたベンチに腰を下ろすと、薄青い空を見上げた。
ずいぶん懐かしいことを思い出したものだ・・・・・・。
両親が生きていたころのことなんて、いまでは遠い記憶だった。
衝撃の告白を聞いた後、混乱したアオは、少し考えさせてほしいとカイルに頼んだ。ひとりになって考えたいというアオの気持ちを考慮して、カイルは気分転換に、と散歩を勧めてくれた。
アオは、病み上がりに身体が冷えないようにと、わざわざカイルが持たせてくれたステンレスボトルの蓋を開けた。熱い紅茶をすすりながら、あいつまだ若いのに気が利きすぎだろうと、こんなときなのにおかしくなった。
雲がゆっくりと流れてゆく。こんなにゆったりした時間を過ごすのは、いつ以来のことだろうか。
カイルから、シオンが”運命のつがい”の相手であるという話を聞いたとき、まずアオが感じたのはわき上がるような純粋な喜びだった。それからすぐに冷たく自分を見下ろすシオンの顔を思い出し、冷や水を浴びせられたような気持ちになった。
あいつが”運命のつがい”であるわけない。
少なくとも、シオンがそれを望んでいないことは確かだ。
そう思った瞬間、自分がずーんと闇に沈み込んでいくみたいに、ひどく寒々しい気持ちになった。
「ははっ。俺、何を期待してたんだろ」
おとぎ話なんて、そんなものあるわけないって、とっくにわかっていたはずなのに。
最初から最悪の出会いだった。お互いに印象は最悪で、住む世界も違う。本当だったら、ほんの一瞬、すれ違っただけで終わっていた。
アオはぶるりと身震いした。ステンレスボトルの口を開けっぱなしにしていたせいで、中の紅茶はすっかり温くなっていた。いつの間にか身体が冷え切っていることに気がつき、部屋に戻ろうとアオが立ち上がったときだった。
すぐ近くで、カサリと落ち葉を踏む足音が聞こえた。何気なく顔を向けたアオは固まった
シオンだった。
数日ぶりに目にする彼の傍らには、ひとりの少女がいた。シオンたちはアオの存在にまだ気づいてはいないようだった。少女がかけた言葉にシオンが言葉を返し、やさしくほほ笑む。
アオは、胸がぎゅっと締めつけられた。
それは、これまで目にしたことのないくらい、柔らかな表情を浮かべているシオンの姿だった。シオンが少女を見つめるその瞳から、彼女への気持ちが伝わってくるようだ。
とっさに逃げなきゃと思ったアオの手から、ステンレスボトルが滑り落ちた。
あ、やば・・・・・・っ!
アオのたてた物音に、シオンたちが振り向いた。そこにアオがいることに気がついたシオンの表情が、さっき少女を見ていたときの柔らかなものから、アオがよく知る冷たいものへと変わる。
ずきん、とアオの胸が痛んだ。
なんだこれ、痛てぇ・・・・・・。 こっちにこないでほしい。自分のことなんて気がつかなかったことにしてほしい。そんなアオの願いは叶わず、少女を伴ったシオンはアオのいるほうへとやってくる。
「目が覚めたのか」
「あ、あの俺、迷惑をかけてごめん・・・・・・」
アオはシオンの顔が見られなかった。視線をそらしたまま、へらへらと愛想笑いを浮かべるアオに、
「本当に迷惑だな」
シオンはばっさりと切り捨てた。
アオは、ぐっと息を呑んだ。
「発情期にふらふらしていたら、どんな目に遭うかなんてわかっていたことだろう。それをお前は・・・・・・。男漁りでもしていたのか?」
「ちが・・・・・・っ」
前に危険な目に遭ってからは、一度もそんなことはしていなかった。
アオは慌てて否定をしようとして、自分を見つめるシオンの視線の冷たさに思わず怯んだ。シオンの瞳には、アオに対する軽蔑がはっきりと滲んでいた。
そうだよな、という諦めの思いがアオの胸に落ちてきた。何て言い訳をしようと、自分が生活のために身体を売っていたことは事実だ。いまさら止めたって、過去は消えない。
アオは目をそらし、ははっ、と笑った。
「ほら、俺ってば、男がいないと駄目なオメガだからさ」
アオの目の端に、シオンが何かを言い返そうとしたのが映った、そのときだった。
「シオン、だれ?」
少女がシオンの腕にそっと指をかけた。まっすぐな瞳と合った瞬間、アオはドキッとした。間近で見ても、息を呑むほどに美しい少女だった。少女といっても、年齢はアオと同じくらいだろうか。ダークブラウンの髪の毛を胸のあたりまで伸ばし、まっすぐにアオを見つめる少女の瞳の色は、柔らかな茶色だ。そして少女は、アオと同じオメガだった。
「あなたは? シオンのお友だち?」
「あ、あの、俺は・・・・・・」
「マリア。こいつは何でもない」
シオンがアオと少女の間に割って入る。ふたりはお似合いだった。シオンと少女が並んだ姿は、まるで完璧な一組のカップルように絵になった。
「シオン?」
自分から少女を守るようなシオンの仕草に内心傷つきながらも、アオは別にそんなに必死にならなくたって何もしやしねえよ、と捻くれた気持ちになった。
「でも、おにいちゃんがシオンにお客さまがきているって」
「おにいちゃん?」
アオは拗ねていたのも忘れて、思わず反応してしまった。
「うん。おにいちゃんはカイルっていうの。あなた、知ってる?」
「えっ!? カイルの妹って、マジかっ! 全然似てねーじゃんっ!」
驚きのあまり、遠慮も忘れて声を上げたアオに、シオンは不快そうに眉を顰めたが、マリアと呼ばれた少女はおかしそうにくすくすと笑った。
「そんなに似てない?」
「全然似てねえよ! 月とスッポンくらいに違うじゃん! ・・・・・・いや、あいつがいいやつだってのはわかってるけど、ほら、見た目がさ・・・・・・」
「見た目はちょっとこわいのよね、おにいちゃん」
「そうそう!」
すっかり初対面の少女と意気投合しながら、アオはさっきから違和感があった。少女の見た目はアオと同い歳くらいに見えるのに、少女が話をしている声だけ聞いていると、まるで幼い少女を相手に話をしているような気持ちになるのだ。例えるなら、十歳かそこらのときのリコを相手に話をしているようだ。
「マリア。もういいだろう。あまり長く外にいるとまた体調を壊すぞ」
シオンが少女の肩にそっと手を置いた。それを目にしたとたん、アオの胸は再びずきん、と痛んだ。
「お前も早く部屋に戻るんだな」
ふたりの立ち去る気配を感じて、アオは肝心なことをシオンに訊ねていないことに気がついた。
「あ、あのさ、カイルから聞いたんだけど、しばらく屋敷に滞在してほしいってあんたが言っていたって。そんなの、嘘だろ? あんたがそんなこと言うはずがない。何かの冗談だろう・・・・・・?」
あんたが俺の”運命のつがい”だって、ほんとに・・・・・・?
シオンが振り向く。鋭い視線にそれ以上は口にするなと咎められているようで、アオは勇気が挫けそうになった。
「事実だ」
「えっ」
アオは、ハッとしたように顔を上げた。アオを見つめるシオンの表情からは、彼が何を考えているかわからなかった。
事実だって、いったい何が? どっちが?
「どうせ外に出ても早々にお前は問題を起こすに決まっている。それぐらいなら、ここでおとなしくしてろ。それから、屋敷の者には誰彼構わず手を出すなよ」
「なっ・・・・・・!」
かあっ、と羞恥で顔が熱くなる。バカにされていることはわかった。シオンが自分に対してどう思っているかも。
「お、俺がどうなろうと、あんたに関係ないだろ・・・・・・っ!」
怒りのあまり、ぶるぶると震えるアオに、シオンは冷たく一瞥した。
「確かに関係はないな。迷惑だからこれ以上よけいな手間を増やすなと言っているんだ」
アオは、唇を噛みしめた。握りしめた拳がぶるぶると震える。言い返せない自分が悔しかった。それなのに傷ついてもいた。
「いいな。よけいなことはするなよ」
シオンが言い捨てる。
アオは自分に気持ちが不可解だった。シオンの言動にいちいち振り回されている自分が。
ふたりが立ち去っても、アオはしばらくその場から動くことができなかった。
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