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第14話
その夜は満月だった。青い闇が落ちる部屋に、月明かりが照らす。
アオが寝返りをうつと、隣のベッドではリコが健やかな寝息をたてていた。
眠れない・・・・・・。
アオは再び寝返りをうった。さっきから、もう何度もこの動作を繰り返している。
約束どおり、シオンはアオに仕事ができるよう取り計らってくれた。仕事といっても、アオにできることは限られている。それは屋敷のトイレ掃除だったり、風呂掃除だったり、いままでにアオがしていた仕事とそう違いはない。けれどアオが屋敷の手伝いをするようになって、最初はシオンの命令だからと戸惑いを見せていた屋敷の使用人たちの態度が、アオが人々の好まぬ仕事を進んで行っているうちに、段々と変わってきた。これまでは必要最低限にしか接せられなかったのに、その合間に短い会話が挟まれるようになり、打ち解けた態度を見せてくれるようになった。中にはもちろん、いまだにアオに対して敵意を見せる者もいるけれど・・・・・・。
アオがその話を聞いたのは、ほんの偶然からだった。屋敷にいるアオとリコ以外のオメガ、以前一度だけ会ったマリアと呼ばれていた少女が、シオンの”つがい”の相手であるという話をーー。
リコを起こさないよう、アオはそっとベッドから抜け出た。パジャマの上からショールを羽織ると、月明かりに導かれるように、ベランダに通じる窓の鍵に手をかけた。
アオたちのゲストルームは例の庭につながっていて、正面の玄関ホールへとまわらなくても、直接外へと出られるようになっている。
「は~。寒い・・・・・・」
外の空気は冷えていた。部屋の中の暖かい空気が逃げないよう、結露で曇る窓ガラスをしっかりと閉めた。厚手のショールをしっかり身体に巻きつける。
満月のせいか満天の星空は見えなかったが、控えめに輝く星の瞬きが美しかった。白い息を漏らしつつ、アオはしばし星空に見とれた。
シオンはラング一族の若きリーダーだ。アオはシオンのことはあまりよく知らないが、屋敷の人たちの態度から見ても、彼らがシオンに心酔しきっていることは明らかだった。そんなシオンに、相応しい女性がいるのは当然だ。
アオは、一度しか会ったことのないマリアを思い出していた。アオとは正反対な、まるで温室に咲く高級な花みたいにきれいな少女だった。周りの人が、守ってあげなきゃと思わせる。
シオンも、そんなマリアのことを大事に思っているみたいだった。彼女はアオみたいに、きっと世の中の汚れた部分なんて一度も目にしたことはないのだろう。生きるために身体を売っていた自分とはまるで違う。
ずきんと胸が痛んだ。
「最初から住む世界が違うんだよなあ・・・・・・」
そのことがどうしてこんなに胸が痛むのか。
アオは寒さに身震いした。いつまでもこんな格好でふらついていては、風邪を引いてしまう。もう部屋に戻らないと。アオが引き返そうとしたときだった。
また、あの匂いがした。花の匂いは夜の闇に紛れることなく強く香り、よりいっそうその存在感を際立たせた。
どきどきとアオの鼓動が早鐘を打つ。
すぐ後ろで、パキリ、と小枝を踏む音がした。まさかという期待の裏で、どこかでその人の存在を確信している自分がいた。
「シオン・・・・・・」
アオがその場にいることに、シオンも驚いているようだった。普段はクールなその表情に、愕然とした色が浮かんでいる。
どうしていつもこいつなんだろう。こいつだけが、自分をこんな気持ちにさせるのだろう。ひとめその姿を目にするだけで、胸が騒ぐ。触れたい、その瞳に見つめられたいと願ってしまう。会えただけでうれしくて、こんなにも泣きたいような、心細い気持ちになってしまう。誰かに弱さを見せるのは嫌なのに。どうしてこいつだけが、いつもいつもーー。
アオはクチュン、とくしゃみをした。いつの間にか、ショールが肩からずり落ちかけている。身体はすっかりと冷え切っていた。直そうとしたショールの肩に、誰かの指が触れた。
ーーえ・・・・・・?
気がつけばすぐ目の前にシオンの顔があって、その目が合った。青い宝石のようなきれいな瞳の奥に、これまで見たこともない影がちらりと揺らめく。それが欲情だと気づいた瞬間、アオの背筋はぞくりと震えた。シオン、と呼ぼうとしたその唇を、彼のそれで塞がれる。
熱い、まるで波に呑み込まれるような激しいキスだった。
アオの肩から、ばさりとショールが落ちる。
どうしてシオンが自分にキスをしてくれているのか、アオはわからなかった。衝撃と共に泣きたいような狂喜が突如胸に沸き上がり、アオはシオンの背中に縋りつくようにその手をまわしていた。
シオン。シオン。シオン・・・・・・!
くらりと目眩がしそうなほどの濃密な花の匂いに、アオは理性や意識のすべてを手放しそうになる。
突然突き飛ばされるように身体を離され、アオは一瞬何が起こったのかわからなかった。
「・・・・・・やめろ!」
シオン?
苦痛を堪えるかのようなシオンの表情に、心配になったアオが思わず手を伸ばしかけたとき、まるで憎むような目で睨まれて、心臓がぎゅっと縮む思いがした。
「その匂いで俺を惑わすな・・・・・・っ! その手に乗るか・・・・・・っ!」
あ・・・・・・っ。
シオンの言葉でアオは気がついた。アオはこれまでこの匂いを、シオンが身にまとっている匂いだと思っていた。けれど、そうじゃなかったとしたら? シオンはおそらくアオとは逆だ。オメガが放つフェロモンか何かで、アオが意図的にシオンを惑わすための匂いをさせているのだと勘違いをしている。
「ち、違・・・・・・っ」
違う、そうじゃない。この匂いは俺がわざと出しているわけじゃない。
けれど、普段から理不尽な目に遭うことに慣れていたアオは、言い訳をするすべを持たなかった。いまだって内心ではひどく焦っているのに、その表情はほとんど変化してないに違いなかった。
普段弱い者いじめをするようなやつには、一度でも弱みを見せたら終わりだ。そのことを嫌っていうくらい知っているアオにとって、弱みを見せないことは唯一の自己防衛だった。
案の定、アオのポーカーフェイスを、シオンは肯定だと受け止めたらしかった。アオを見つめるシオンの瞳が冷たく冴え渡る。
「お前が”運命のつがい”だろうと、俺は認めない」
”運命のつがい”と言ったとき、シオンはまるでそれを憎んですらいるように感じられた。シオンは冷ややかに切り捨てると、一度も振り返ることなく元きた道を戻っていった。
「・・・・・・だから違うって言ってんのに。ひとの話も聞けよな。クソ野郎・・・・・・」
胸が引き絞られるように痛かった。こんなに苦しくてたまらないのに、心のどこかでは、シオンにキスされたことを喜んでいる自分がいるのだ。
それは、アオにとって初めてのキスだった。
ーー俺は、お前のことは認めない。
立ち去り際、シオンが放つように残した言葉が、アオの胸に刺さる。
そんなこと、だめ押しされなくったってわかっている。シオンには、ちゃんと大事にしたい少女がいるのだ。
胸の奥がしん、とした。
アオは気づいてしまった。どうして自分がシオンにだけこんなに心を騒がされるのか。彼だけが他の人とは違うのか、その意味を。気づきたくなんてなかったのに。
「・・・・・・あんな男に惚れるなんて、ばかすぎるだろ、俺」
アオはため息を吐くと、落ちていたショールを拾った。それから肩を落とし、部屋へと戻った。
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