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第27話

8 その日の午後、アオは仕入れた花の水揚げ作業をしていた。くらりと目眩がしたのはそのときだ。とっさに伸ばした手を商品の入った容器に触れてしまい、バケツを倒してしまった。バケツに入った水は、たまたま近くにいた客の足にかかってしまった。 「すみません!」  慌ててバックヤードへタオルを取りにいこうとしたアオは、しかし目眩ですぐには動けなかった。へたりこむようにその場に膝をついてしまう。 「アオ!」  店の奥にいた店長とセツが急いでやってきた。 「すみません、お客さん! 大丈夫ですか!? 」  店長は客に謝ると、「セツ、ここはいいから、アオを事務所に連れていって休ませてやれ」とセツに告げた。 「アオ、大丈夫? 起き上がれる?」  後ろから身体をセツに支えられるようにして、アオは事務所のイスに座った。ほらこれを飲んで、と手渡されたコップに入った水を、アオはゆっくりと飲んだ。水を飲んだら、少しだけ楽になった。アオは、ふう~っと呼吸を吐き出した。 「悪い、大丈夫だ。仕事に戻ってくれ」  自分もすぐに戻るからと立ち上がろうとしたアオを、セツが止めた。 「アオ、いま自分がどんな顔色をしているかわかってる?」  視線を向けると、普段はあまり自己主張をしないセツが、珍しくまっすぐにアオの目を見つめ返してきた。 「きょうだけじゃない。ここ数日、アオずっと体調が悪そうだった。店長もそれがわかっているから、休むように言ってくれたんだと思う。ひょっとしたら夜もちゃんと眠れていないんじゃないの・・・・・・?」  心配そうな表情のセツに、アオは何も答えられなかった。セツの言うとおりだったからだ。アオはここ一週間ほど、原因不明の体調不良に悩まされていた。   夜はよく眠れないし、そうかと思えば昼に眠くてたまらなくなったりする。いままで何でもなかった匂いが急に気になり、吐きそうになってしまうので、ものが食べられなくなった。極めつけはこの目眩だ。いつ起こるかわからないので、油断ができない。  発情期も正直しんどかったが、今回の不調はまったく原因が思い当たらないだけに不安だった。 「・・・・・・あのひとは知ってるの?」  セツがためらいがちに訊ねる。アオはうっと言葉を詰まらせた。  セツが言うあのひととは、シオンのことだ。あの日、ホテルから先にひとりで帰ったアオを、シオンはわざわざ営業中の店に訪ねてきて、「何で黙って帰ったんだ」と文句を言った。シオンの態度は、怒っているよりも、まるで拗ねているように見えた。  拗ねる? シオンが? まさか。  アオはすぐに自分の思いつきを否定した。シオンに拗ねるなんてことは似合わない。  アオは、なぜシオンがそんなに不機嫌そうにしているのかわからなかった。アオが先に帰ろうと帰るまいとシオンには何も関係のないことだ。それともそんな些細なことが面白くなかったのだろうか? 「あんたに何の関係があるんだ?」  疑問に思ったことを素直に口に出したアオに、シオンはむっとしたように帰っていった。  困惑したのはそれからだ。  シオンは毎日のように店に顔を出しては、アオに作らせたブーケを買って帰った。  さすがにそんなに花はいらないだろうと思ったが、客としてこられては無下にできない。一週間も経過するころには、ただでさえひとめを引くシオンの姿は、すっかり近所で噂になっていた。いまでは店の従業員は、シオンがアオの相手だと勘違いする始末だ。いくらアオが違うと否定しても、信じてはもらえない。  期待なんてしたくなかった。シオンはアオのことなんて選ばない。叶わない願いなんて抱きたくない。 「あいつは関係ない」  苦い気持ちで告げたアオに、セツは何とも微妙な表情を浮かべた。  突然こみ上げてきた吐き気を、アオはウッと呑み込んだ。冷や汗が滲み、指先が冷たくなる。ぎゅっと目をつむって堪えていると、しばらくしてようやく吐き気が落ち着いてきた。  気がつけば、セツがアオを凝視している。 「・・・・・・アオ。ひょっとしたら妊娠しているんじゃないの?」 「は? 妊娠・・・・・・?」  アオはセツの言葉を笑い飛ばそうとして、すっと血の気が引いた。  あの日、シオンに抱かれたとき、アオは確かに自分の身体に違和感を覚えていた。その意味を深くは考えなかったが、あのときもし発情していたら・・・・・・?  アオは恐怖に目を見開いた。無意識のうちに、震える手でシオンに噛まれた首のあたりに触れる。 「・・・・・・い・・・・・・やだ」  嫌だ。嫌だ・・・・・・。  アオの目に涙の膜が盛り上がる。その場にとどめなくなった涙は、アオの頬を伝い落ちた。 「アオ・・・・・・?」  これ以上はもう無理だった。アオがいくら想ったって、そんなものはすべて無駄なのだ。自分がシオンに愛されることなどない。  怒りや悲しみ、絶望や嫉妬、そして痛み。これまでアオが望んでも叶わなかったもののすべて。さまざまなものがごちゃ混ぜになって、アオを押し潰す。 「アオ、泣かないで・・・・・・」  セツがためらいがちに伸ばした手でアオを抱きしめる。 「・・・・・・妊娠してるかは、ちゃんと検査してみないとわからない。僕も一緒に病院へついていくから、泣かないで・・・・・・」  そのときだった。 「・・・・・・いま妊娠と言ったか?」  凍りつくような冷たい声がして、振り向けば事務所の入り口にシオンが立っていた。氷のような美貌が凄みを増し、アオとセツをじっと睨んでいる。  その瞬間、アオの中で何かが壊れた。アオはテーブルに置いてあったコップつかむと、シオンに向かって投げつけた。 「くるな!」  コップの中にはまだ水が残っていたらしく、シオンのズボンの裾を濡らして、床に転がった。 「あんたには関係ない。だからこっちへこないでくれ・・・・・・」  アオが懇願するのも構わず、シオンは近づいてくる。 「あ、アオはこないでくれと言ってる・・・・・・!」  シオンを前にしても、セツは退かなかった。震える声で、アオを庇うように気丈に言い放つ。 「お前は誰だ。関係ないやつは黙ってろ」  シオンから、まるで足元に転がる小石を見るような目で一瞥されたセツは、びくっとした。腰が抜けるように、その場にすとんと膝をつく。 「嫌だ・・・・・・嫌だ・・・・・・や」  アオは頭を振った。駄々をこねるように、何度も嫌だと繰り返す。ふいに、後頭部を包み込まれるようにシオンに抱きしめられた。 「・・・・・・っ!」  アオはシオンの腕の中から逃げようとするが、拘束は固くて解けなかった。アオはシオンの胸をこぶしで何度も叩いた。 「・・・・・・お前は何がそんなに嫌なんだ? 言葉にしないとわからない。頼むから、はっきりと言ってくれ」  苦しげな声で囁くように告げられ、アオはぐしゃりと顔を歪めた。涙がぽろぽろと零れ落ちる。 「・・・・・・あんたなんか嫌いだ!」  大切にしなきゃいけない子がいるくせに。マリアがいるくせに。 「二度と顔なんか見たくなかったのに、なんで毎日のようにくるんだよ・・・・・・っ!」  どうせいくら想っても好きになってなんかくれない・・・・・・。 「あんたになんか会いたくなかった・・・・・・っ!」  好きだという気持ちがこんなに苦しいものだなんて、知りたくなかった・・・・・・。シオンなんて、シオンなんて・・・・・・。 「嫌いだ・・・・・・」  好き・・・・・・。 「あんたなんて嫌いだ大嫌いだ・・・・・・」  大好き・・・・・・。  胸がぎゅっと詰まる。苦しくてたまらなかった。何も望まないでいるなんて嘘だった。俺を愛してほしい。どうか好きになってほしい。ほかの誰にも触れてなんかほしくない。俺だけを見て・・・・・・。そう叫び出したい気持ちで気が狂いそうになる。 「あんたなんて・・・・・・」 「ーー愛してる」  ふいに聞こえてきた言葉に、アオは固まった。一瞬何を言われているのかわからず、握っていたこぶしを身体の両脇にだらりと垂らす。 「お前のことが好きだ」  シオンの言葉が音になってアオの耳に入り、意味を理解したとき、アオは喘ぐように息を吸った。 「ひどい・・・・・・」  どっと涙があふれた。  よりによってそんな嘘をつくなんてひどい。  アオはますます身体を強ばらせた。全力でシオンの腕の中から逃げようとする。 「ひどい? 何がひどいだよ?」  頭を振りながら、ひどい、ひどいと繰り返すアオに、さすがに心外だと思ったのか、シオンの声にも険が混じる。  アオは、シオンが本気で言っているとは思えなかった。責任感? 同情心? 俺がつがいの相手だから? それとも妊娠したかもしれないと聞いたからだろうか。  そんなのは嫌だ。こんなにシオンのことを好きになってしまったいまでは、そんなのはもう堪えられそうになかった。  アオは泣きながらシオンを見つめた。いつもきれいだと密かに思っていた青い瞳がアオだけを見ている。その瞳を見ていたら、アオの口からぽろっと言葉が零れ落ちた。これまで言えなかったアオの本心が。 「あんたが好きだ・・・・・・。同情なんかじゃ・・・・・・嫌・・・・・・」  その言葉を最後まで言わないうちに、封じ込めるようにシオンにキスをされる。最初は唇に。そして、こめかみに。 「・・・・・・好きだ。アオ。同情なんかじゃない。お前が好きだ」 「ん、あっ・・・・・・シオン・・・・・・」  大きな手で包み込まれるように、後頭部をぐしゃりとかき混ぜられた。 「愛してる・・・・・・」  シオンの瞳は、嘘を言っているようには思えなかった。  アオの胸に初めて小さな明かりが灯る。それは吹けば消えてしまいそうなほどはかない光だけれど、ひょっとしたらと信じたくなる。  本当に? シオンが俺のこと本当に・・・・・・?  小さな光は、あたたかな熱を持ってじわりとアオの胸に広がった。  それでもすぐにシオンの言葉を信じるには、アオは臆病すぎた。 「そ、それは、俺が”運命つがい”の相手だから? 本能には勝てないから? ひょっとしたらそれでしかたなく・・・・・・」  往生際悪く続けようとするアオの言葉は、シオンのキスによって再び封じ込められる。深いキスを交わした後、ちゅっと軽く唇に触れられ、また離された。 「・・・・・・正直な話、最初はそうかもしれないと思っていたがな。惹かれるのは、お前の言う、くそフェロモンのせいだと」  正直に言われて、アオの胸はちくっと痛んだ。そんなアオの気持ちを見透かしたように、シオンが笑う。 「いまはそんなことはどうでもいい。ひょっとしたら、ほんの何パーセントかはそうかもしれないがな、たとえお前が運命のつがいの相手じゃなくても、俺はお前が好きだよ。・・・・・・アオ」  やさしく名前を呼ばれて胸が震えた。 「お、俺も、俺もシオンが好き・・・・・・っ」  ぎゅっとしがみついてきたアオの身体を、シオンが受け止めてくれる。ふわりと身体が浮いたと思ったら、アオはシオンに抱き上げられていた。 「シ、シオン!?」  一瞬慌てかけて、思い直したように、アオは身体からふっと力を抜いた。シオンの首にまわした手に、ぎゅっと力を込める。  夢を見ているみたいだった。幸せすぎて、どうにかなってしまいそうだ。  そのときアオは、ハッとした。セツのことをすっかり忘れていたのだ。いつの間にか、あの大人しくてやさしい青年の姿は消えていた。 「とりあえずは病院だな」  ちくんと胸が痛んだアオの横で、シオンがうれしそうに言った。

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