190 / 287

第190話 甘い果実

何事もなく平穏な日々が続き、俺から香るという匂いの話は、すっかりと忘れてしまっていた。 あっという間に3学期が終わり春休みに入って、少しずつ気候も暖かくなってきた。 早いもので、銀ちゃんと再会してから1年が経つ。色々あったけど、今が最高に幸せだから、辛かった事も全部、いい思い出だと思えるのが不思議だ。 大学生の銀ちゃんは、俺よりも先に春休みに入っていた。でも、週の半分は縹さんの会社に顔を出さなければいけないらしく、渋々出勤している。 当主になるという重い役目から解放された代わりに、いずれは会社を任される事になったからだ。 この日も、朝早くから会社に行ってたけど、「昼には終わりそうだから、待ち合わせてお昼を食べよう」という事になった。 俺は、白のTシャツに青色のカーディガンを羽織り、細身のジーンズを履いて駅までの道のりを走る。服を決めるのに時間がかかってしまい、出るのが遅れてしまった。 電車が出る5分前に改札を通り、ホームへ向かう階段を駆け上がる。でも、かなりの距離を走って来た俺の足は、ガクガクに震えて力が入らなくなっていたらしい。階段の中頃まで登ったところで、靴の先が階段に引っかかり、顔面から転びかけた。手をつく間もなく、『ヤバいっ』と頭の中で叫んで、咄嗟に目をつむる。その時、顔面を強打するはずだった衝撃の代わりに、背後からお腹をぎゅっと抱えられた。 何が起こったのかわからなくて、そっと目を開けて間近の階段をぼんやりと見つめる。今の自分の状況がよくわからなかったけど、とりあえず痛い思いをしなくて済んだ、と安堵の息を吐いた。 俺のお腹に回された腕が、俺をしっかりと立たせてからするりと解けた。 「危なかったね。大丈夫?」 くすくすと笑いを含んだ声に、慌てて振り返る。 「あ、あのっ、ありがとうございますっ。危うく、怪我をするところでした。助かりま、し…た…」 ぺこりと頭を下げてから、顔を上げて助けてくれた人を見た。 サラサラとした綺麗な黒髪、筋の通った高い鼻、綺麗な弧を描く薄い唇、そして、切れ長の二重の中の、俺を見る灰色がかった瞳が吸い込まれそうに美しい。2段下にいる彼と俺の目線が並ぶくらいに、背も高い。 今まで、たくさんの綺麗な妖を見てきたけれど、彼らに匹敵するか、それ以上の綺麗な人は初めて見た。 俺が見惚れて固まっていると、その人は俺の頭にぽんと手を乗せて、「気をつけるんだよ」と言った。そこで我に返った俺は、「はいっ、すいませんでした」ともう一度頭を下げて、今度は少し早歩きで階段を登り始めた。 直後に後ろから、「……と………た…」と、小さく声が聞こえた気がした。俺は足を止めてもう一度、振り返る。その人は俺に背中を向けて、もう階段の下まで降りてしまっていた。 その人が去った方角を眺めていると、電車が入って来るアナウンスが聞こえてきた。俺は慌てて残りの階段を駆け上がり、息を整えながら入って来る電車を待った。

ともだちにシェアしよう!