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第210話 水の檻

俺の名前を呼ぶ声に気付いて、ゆっくりと目を開けた。 「ひっ…!」 目の前の人物を認識して、俺の呼吸が恐怖で止まる。ベッドに寝かされていた俺は、両手で布団を握りしめると、ぶるりと身体を震わせた。 「あれ?どうしたの?俺だよ。凛の恋人の尊央(たかお)だよ。ほら、おいで?」 白いシャツを着た久世先生がベッドに乗り上げてきて、俺の背中に手を入れて起こし、胸に抱き寄せる。俺の髪の毛に鼻先をつけてすんすんと匂いを嗅ぎながら、背中をゆっくりと撫でた。 「昨日は頑張ったからね。今日はゆっくり休んでいいよ。お腹が空いただろうと思って、ご飯を用意したんだ。食べようか?」 「昨日…?え…今って、朝?」 先生の胸の中で呟く俺に、優しく答える。 「そう。昨日戻って来たら凛は床に倒れててね。そのまま一晩中起きなかったんだ。だから、昨日の夜の分もしっかりと食べないとね」 「あ…、せ、先生…っ、清はっ、清はどうしたのっ?」 「ん?ああ、あの狐。さあ…死んだんじゃないかな。全然動いてなかったし」 「そんなっ…」 俺の心臓が大きく跳ねて、一気に血の気が引いてゆく。指先から冷えていく手を突っ張って、先生の腕から逃れようと胸を押した。だけど逆に強く抱きしめられてしまう。 「暴れたらダメだよ。凛は体力が弱ってるんだから。今日は一日ゆっくり休もうね」 「…っ、や…離せよ…っ。先生…学校は…」 「凛。俺はもう先生じゃないから、尊央(たかお)って呼んで。学校は行かなくていいよ。俺も先生を辞めて来たし。そのうち凛が絶対に逃げないって確信出来たら行かせてあげる」 「え…、そんなの…嫌だ…」 俺はしつこく少しばかりの抵抗をしてみるけど、先生の腕はびくともしない。先生…尊央が俺の顎を掴んで、額にキスを落とす。そして、俺の前にパンやウインナー、スクランブルエッグとりんごが乗った皿とフォークを差し出した。 「はい、じゃあ食べようか。しっかり食べないと体力が回復しないよ」 俺はフォークを受け取ると、震える手でウインナーを突き刺し、そろりと口に運んだ。 ーー確かに食べないと体力が回復しない。ここから逃げ出す為にも弱ってる場合じゃない。 昨日の事があって、あまり食欲はなかったけど、俺は時間をかけて全部を食べ切った。 温かい紅茶を飲み干した俺を見て、尊央が目を細める。 羽織った浴衣の襟から手を入れて、するりと俺の肩を撫でた。 「この浴衣も綺麗だろ?昨日の藍色も似合ってたけど、紫も似合うね。じゃあ今日は、よく休んで体力回復に努めろよ?」 にやりと弧を描く口元に、ぞくりと悪寒が走る。もう一度、俺の額に口付けると、食べ終わった食器を持ってドアから出て行った。 俺は羽織っていた浴衣の袖に腕を通し、前をきっちりと閉じる。くくる紐がないから、手でしっかりと押さえた。 部屋を見回すと、濡れていた床はすっかり乾いて綺麗になっている。 ふいに昨日の事を思い出して、さっき食べた物を吐き出しそうになる。何度か唾を飲み込んでやり過ごそうとしたけど、我慢出来なくなってトイレに駆け込み、全部吐き出してしまった。俺は涙目になって荒い息を繰り返す。 出て行く前に尊央が見せた不審な笑顔に、胸の中に不安が広がっていく。 ーーもしかして、またあんな事をするつもりだろうか?だから、ゆっくり体力を回復しろと言ったんだろうか…? もうあんな事は嫌だ。銀ちゃん以外に、俺の中を暴かれるのは耐えられない。 それに、清の事が心配だ。あの後すぐに、銀ちゃんと倉橋が来て助けてくれてるに違いないけど、早く、清の無事な姿を確かめたい。 その為にもここから逃げ出さないと…。 俺は、何とか逃げ出す方法を見つけるべく、ふらふらと立ち上がり、トイレから出て部屋の中を一つ一つ見て回った。

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