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「――『あなた』っていうのは、貴方のことじゃない。変な勘違いをしないでもらえませんか」 「なんで? まさかアウリールだとでも? 唄のどこにあいつの名前が入っている。勘違いしているのはおまえじゃないのか」 「……な、なにを」  この男はなんと勝手なことを言うのだろう。ずっとずっと歌ってきた唄の解釈をこちらが間違っているとでもこの男は言いたいのか。少年はさすがに苛立って、わずかに声の調子を荒らげだす。 「突然現れた貴方がっ……! ずっと僕が歌ってきた「あなた」なわけがないでしょう! そうだとしたら今までの僕はいったいなんなんですか!」 「だから! そういうことなんだよ! ずっとずっと、おまえは俺を待っていた。そして今、こうして出会う。おまえがその唄を歌っていたのはきっと、こうして俺と出会うため。そうだよ、これは運命だと思うんだ!」 「……ッ、――ハァ!?」  男は見事に言い切った。あまりにも自信満々に言うものだから、少年は反論する気も失せてしまった。運命なんて、そんな不確かなもの認めたくないのに。しかもこんな見ず知らずの男の運命なんて。  男はにこにこと鬱陶しいくらいの笑顔を浮かべて少年に近づく。少年がぐっと唇を噛んで睨みつけても気にもしようとしない。 「ね、だから名前を教えてくれよ。おまえの、本当の名前」 「……ほんとうの? 僕の名前は――」 「ラプンツェルじゃなくて。それ、そこに生えている野菜の名前じゃん」 「……そ、そうですけど。でもアウリール様が……」 「本当に昔からその名前だったの? アウリールと出会う前にも名前はあったでしょ?」  ぐ、と少年は押し黙った。今、アウリールに呼ばれている名前を否定されて正直腹がたったが、男の言っていることは事実だ。この「ラプンツェル」という名前はアウリールが、少年の両親がアウリールから盗んだというラプンツェルに由来しているというだけのもの。名前というには少しあやしいものですらある。本当は、少年も人間らしい名前をもっていた。両親の顔こそは覚えていないが、なぜかこの名前を忘れたことは一時もなかった。 「僕は……僕の名前は、(なぎ)……です」  なぜか黒く、常に脳内を渦巻くモヤのなかで、「椛」という名前だけは鮮明に浮かんでいる。それが自分の名前であるということはずっと前から知っていて、ただそれが誰から与えられたものなのかはわからない。普通に考えれば自分をアウリールに引き渡した両親であるはずなのだが、その両親を覚えていないのだ。  この名前を口にしたのは、初めてだった。いう機会がなかったということもあるし、なによりアウリールの与えたラプンツェルという名前を自分のものにしようとしていたからだ。だから、こうしてこの口からこの名前がでてきたということに、少年――椛自身驚いていた。 「ナギ? ナギっていうんだ? 俺はラインヴァルトだ! ラインって呼んでくれていいよ」 「……はぁ」  この男のペースにもっていかれそうだ。まさかこの男はこれからもここにくるつもりか。椛はラインヴァルトから目を逸し、これ以上心をかき乱されまいと口を閉ざす。  頼むから、平穏を壊さないで欲しい。今の状況がずっと続けば、それで僕は幸せなんだから。 「じゃあ、よろしくな、ナギ! 俺今日はもういかないとだから! 臣下が俺を探す声が聞こえるし!」 「……もうこなくてもいいです」 「おう! 明日もくるからな!」 (きけよ)  ラインヴァルトはパッと笑って手を降った。その瞬間、また、ラインヴァルトの後ろから強い光のようなものが差した気がした。椛は顔をしかめて彼から顔をそむける。  ラインヴァルトが小窓から外にでていく音を、耳だけで聞いていた。そこには風の音と小鳥のさえずりが混ざっている。音が小さくなっていって、もう一度小窓を見てみれば、そこには眩い青空が広がっていた。

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