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***  シャワーを浴び終わってヘンゼルが部屋に戻れば、少年が布団をかぶっている。寝ているのかと思って、床の軋み音をたてないようにゆっくりと近づいていって少年の隣に入り込むと、ヘンゼルは少年に背を向けて目を閉じた。ベッドは狭く、背中と背中は触れ合っている。夢に堕ちようとしたところでヘンゼルは、背中から微弱な揺れを感じ取った。 「……?」  耳をすませてそれを聞いて、ようやく理解する。 ――弟が泣いていることに。 「……おい、……おい、ナギ」 「……っ」  ヘンゼルは少年を、「ナギ」と呼んだ。少年の名前は確かに「グレーテル」なのだが、ヘンゼルが「ナギ」と呼ぶのには理由がある。  椛の身売りは、町にも広く知れ渡っていることであった。容姿も整っている上に客への対応もいいことからなかなかに好評だそうで、そういったものを好む大人たちの間で「グレーテル」は有名なのだ。ヘンゼルもそれを知っていて、兄であることからそのことを尋ねられることも多々ある。揶揄されることだってある。椛の身売りを快く思っていなかったヘンゼルにとってそれは大変不快なことであり、いつしか「グレーテル」という「身売りの少年」が嫌いになってしまった。しかし、どんなに嫌いになったところで椛はヘンゼルの弟であり縁を断つことは難しい。「グレーテル」と口にしたくないという思いから、ヘンゼルは少年に「ナギ」という名前をつけたのだった。 「兄さ……」 「……どうしたんだよ、そんなツラして」 「……べつに、なんでもない、よ……」 「何でもない奴が泣くわけねーだろ」  振り向いた椛は、やはり泣いていた。濡れた睫毛が、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされてきらきらと光っている。綺麗だ、と一瞬思ったのはすぐに振り払った。指でそれを拭ってやって、くしゃりと髪を撫でる。 「……俺は、おまえの考えていることが理解できないから何も言えねぇけどよ……無理はすんなよ」 「……無理なんて、してな……」 「……じゃあなんで泣いてんだよ」 「……」  理解はできなくても、なぜ椛が身体を売っているのかということはわかる。椛は人を傷つけることができないから、自分を傷つけて生きている。そして自分が傷つくことによって家族が救われるのならばそれでいいと思っている。  黙り込んだ椛が、嘘をついているのだということくらい、ヘンゼルはすぐにわかった。彼の考えについてはまったく賛同できないが、弟が苦しんでいるところを見捨てることができるほどヘンゼルは非情にはなれなかった。価値観が合わないどころかお互いにお互いを嫌悪している。それでも兄としての性だろうか。気付けばヘンゼルは椛を抱きしめていた。 「……離して、よ……」 「……したくてしてんじゃねー……おまえの泣き声がうるさくて眠れねぇんだよ」 「……」 「めんどくせぇから泣くだけ泣いてさっさと寝てくれ。俺だって早く寝たいんだから」  ぎゅっと腕に力を込められ、ヘンゼルのぬくもりを感じた瞬間、椛は壊れたように泣きだしてしまった。やりたくて身体を売っているんじゃない、そうしなくちゃ生きられない。見知らぬ爺に身体をべたべたと弄られて、媚をうるような言葉を吐いて、そんなこと嫌に決まっている。 「もうやだよ……やだ……いつまで僕……こんなことしなくちゃいけないの……」 「……ナギ、」 「きたない……僕の身体、きたないよ……」 「……そんなことない、自分と家族のためにやったことなんだろ」  泣いている相手に対して否定的な言葉を吐いてはいけないと、ヘンゼルは心にもないことを言う。なぜ椛が小汚い男に身体を売ることができるのか理解できないし、誰かのためとかそんな理由はくだらないとしか思えない。それでもこうして弱った椛を慰めるために、ヘンゼルは嘘をついた。 「……ほんとに、そう、思ってる?」 「……ああ」 「……だって、兄さんは……僕のこと汚いって、気持ち悪いって……思っているんじゃないの?」 「……おまえのこと自体をそんな風に思ってないよ……俺はできないって言っただけで……」 「……そう、だったら……」  椛がふと顔をあげた。嘘を見抜かれたのか、そう思って一瞬ドキリとしたが、そうではないとすぐにヘンゼルは気付いた。その熱を汲んだ瞳は、ヘンゼルを責めてはいない。 「……僕の身体……舐められる?」 「え――」  どろりと腐った果汁が零れ落ちるような、そんな眼差しで見つめられて、ヘンゼルは寒気を覚えた。椛が身体を起こせば、布団がずるりと滑り落ちる。

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