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*** 「すごい人だな」 「そりゃあ年に一回の一大イベントだからな!」  日が沈み、サーカスの開演時間がやってくる。町のはずれに巨大なテントが張られ、そのなかに人が集まっていた。ヘンゼルとテオもその人混みの一団となる。  ここまでの密集空間はあまり慣れていない。ヘンゼルは落ち着きなくきょろきょろとあたりを見渡していた。はぐれないようにテオの服の袖を掴めば、テオが笑いかけてくる。 「あ……あれ、」  すこし離れたところに、見慣れた黒髪が見えた。小太りな男に寄り添うようにして立っている少年。見たことのないノリの効いたシャツはきっと、その男に買ってもらったのだろう。 「……椛」 「へ? ナギ? お前の弟だっけ? どうしたの?」 「……客に連れてきてもらったんだろう。……あそこにいる」 「あ、ほんとだ! わ~、結構前のほうじゃん、いいなぁ」  ステージの光を浴びた椛の横顔が、ヘンゼルの瞳に映る。憂い気な顔は色とりどりに染められて綺麗だった。それでも、その黒い瞳には影をおとしていて、昨日の涙を思い出させる。  その姿はまさしく――買われた男娼。  みてはいけないものを見たような気がして、ヘンゼルは目を逸らした。椛はこんなサーカスに連れてきてもらって何をおもっているんだろう。歳はまだ子どもといってもいい歳なのに、まわりではしゃいでいる子どもとはあまりにも表情が違っていた。楽しい空気と椛の持つ心を塞いだような表情の乖離が、ヘンゼルには残酷に思えた。  ステージのライトが一層明るくなる。ショーが始まる。  道化師が壇上に踊りだし、華やかに挨拶を始めた。白塗りの派手な化粧を施したその顔は、どこか不気味さを感じさせる。真っ赤に描かれた大きな唇は笑っているというのに、目元は笑っていない。 「Ladies and gentlemen! 今宵の僕たちのパーティーをどうぞ楽しんでいってネ!! 一緒に素敵な夜を過ごしましょう!」  気を違えたような甲高い声で、道化師は開幕を告げる。  サーカスは、非現実的空間だった。まるで夢の世界のように、信じられない光景の連続だった。観客はただただ圧倒され、目を輝かせて、そのショーを楽しんでいた。  猛獣使い、空中ブランコ、玉乗り……それはそれは華やかで賑やかなショーだった。隣でテオは大はしゃぎをしていた。しかし、ヘンゼルの表情は優れない。  ステージの端に立って狂言回しの役にたっていた道化師が、異様に怖かったのだ。ショーの進行を司る傍ら、観客をなめまわすように見つめていた真紅の化粧の中に浮かぶ、眼窩(がんか)のような瞳で。彼と目があった瞬間は、全身の肌が粟立つようだった。冷や汗がふきだしてきて、吐き気すらも催した。  そしてなによりも。  空中ブランコがステージ上で披露されているときだろうか。観客がくるくると飛び交う役者を見上げているとき、道化師はつうっと首を動かして――椛を凝視していた。無表情。ただ化粧によって描かれた唇だけが、微笑んでいた。  全ての演目が終わって、盛大な拍手が巻き起こる。激しい光と音による演出が場内で舞っていた。 「本日は僕たちのショーをみてくれてアリガトウ! 楽しんでいただけたかナ!? これにて今宵はサヨナラだ、また次に会う機会まで――ごきげんよう!」  バイバーイ、と道化師が大きく手を振ると、観客もそれに応えるようにして手を振った。 「――っ」  視界がぼやける、音が頭の中で五月蝿く反響する。気分が悪くなって、頭が痛くなって、耐えきれずヘンゼルはふらりとよろめいた。隣にいたテオが驚いてヘンゼルを抱きとめる。 「ヘンゼル……!? 大丈夫か?」 「あ、うん……ごめん、大丈夫」 「ここからでようか、人が多いと辛いだろ?」 「……ありがとう」  テオの肩を借り、出口に向かってあるきだす。人ごみを掻き分け、ようやく出口に近付き外の空気を僅かに感じたそのとき、後ろから名前を呼ばれる。 「ヘンゼル君!」 「……?」  酷く体調が悪い。正直誰とも話す余裕などなかったのだが、無視をするわけにもいかない。首だけを動かし、声をした方を顧みる。 「あ……」  名を呼んだ男を視界に留めた瞬間、ヘンゼルは凍りついたように固まった。男……というよりは、男の隣にいた――椛。そう、ヘンゼルを呼び止めたのは、椛の客だったのだ。 「やあやあヘンゼル君、久しぶりに君を見かけたものだからついつい呼び止めてしまったよ」 「……なんのようだよ」 「あっはっは、いややっぱりグレーテルちゃんのお兄さんってだけはあるよね! ヘンゼル君もすごく綺麗な顔をしている」 「……テオ、いこう」  男に容姿をそのように褒められることに気味悪さを感じたヘンゼルは、前に向き直って男を無視しようとした。しかし、男は気にしないように笑っている。 「最近ね~立ち上げた会社が大当たりしちゃってさ~」 「……」 「100ターラーでどう? グレーテルちゃんと3Pさせてよ」 「100……ターラーって……」  先に驚いたのはテオだった。目の前で友人が買われようとしているショックも大きかったが、その金額の大きさに驚きを隠せなかったのだ。100ターラーなんてそう簡単に手に入る金額ではない。 「……ふざけんな、金で俺を買われてたまるか、気持ち悪い……二度と話しかけるなくそ忌々しい雌豚が!」  酷い屈辱だった。ヘンゼルはテオを振り切って足早に会場を出てしまう。後ろからテオが名前を呼ぶ声がきこえたが、立ち止まる気は起こらなかった。今まで体を支配していた気怠さも、怒りによって掻き消されていた。  会場からでてしばらくたったところで、後ろから足音が聞こえてくる。 「――兄さん……!」  振り向けば息をきらした様子の椛が追いかけてきていた。困ったようにヘンゼルを見つめ、ぎゅっと服を掴んでくる。 「に、兄さんごめん……嫌な想いさせて……」 「……はやく戻れよ、あの客逃したらまずいだろ」 「……」  苛立ち混じりにヘンゼルがそう吐き出すと、椛はしゅんとしたように俯いた。売春の客のもとへ突き放されたことがショックだったのかもしれない。金のためにやっているとはいえ、あの客のことなど好いてはいないのだ。  掴まれた手を振り払う。この弟のせいで「淫売の少年の兄」というレッテルを張られているのだ。昨夜どんな顔をみせたとしても、ヘンゼルが椛を嫌いなことに変わりはない。 「……いい、あの人が僕のもとから離れていっても、他の人がいるし。今までどおり一回10ターラーでやっていれば、変わりなく生きていくことはできる」 「……なんでこんなチャンスを逃そうとしているわけ? おまえ一人でアイツの相手してやれば、100ターラーまではいかなくても大きな金をもらえるだろう?」 「――今は、兄さんと離れたくないんだ! ……胸が、ざわつくんだ」 「……なに言ってんの」 「不安なんだよ、兄さんに、これから苦しいことが起こるんじゃないかって……」 「……意味がわからないんだけど」  今度こそ、椛は気が触れているのではないかという疑いがヘンゼルの中に浮かぶ。何を急に、何を唐突に。俺たちは今までだって、十分苦しんできたじゃないか。 「――ピエロ」 「……!?」 「あのピエロが……ずっと、兄さんのことを見ていた、怖い、兄さん……あのピエロは……悪魔かなにかじゃないのかな……」 「あいつは……」  俺よりもおまえのことを見ていなかったか?ヘンゼルはその言葉を飲み込んだ。あの道化師に怯える椛にそんなことを言ってどうする。  おそらく、ヘンゼルと椛で感じたことが違うのは、お互いがお互いのことに注意をはっていたからだろう。椛も、ヘンゼルがサーカス場に来ていたことは早々に気づき、そして道化師がヘンゼルのことをみていたことに、自分がみられていたことよりも強い衝撃を受けたのである。  同じ不安を感じ取ったのだ。今は椛から目を離してはいけないのではないか、そういった想いを一切もっていなかったわけではない。 「……帰るぞ」 「……!」 「はやく、家に帰ろう。……一緒に」  ぶっきらぼうにそう言うと、ヘンゼルはさっさと歩き出した。椛はほんのりと、安心したように笑うと、ヘンゼルの服の裾をそっと掴んでついてゆく。  微妙に服を引っ張られる感覚が不快だったヘンゼルは、そんな椛の手をはらうと乱暴に手首を掴んでやった。椛はびっくりしたような表情を浮かべたが、ヘンゼルはそんな彼を無視して歩き続ける。徐々に手の力を緩めていき、やがて手のひらを合わせるようにして手を繋いだ頃には、家の屋根が見え始めていた。

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