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「ホール」というのは、大人数を収容することのできる、中央にステージを設置してある会場のことだ。ヴィクトールとヘンゼルが来た時にはすでに多くの人で賑わっていた。二人はホールの上部に設置してある、特別席のあるところへ来ていた。高い所に位置しており、ホール全体を見渡すことができる。
「そろそろ立てそうかな?」
「ん……」
ヴィクトールからおろされて、ヘンゼルは目の前の柵に捕まる。若干ふらついてはいるが、ちゃんと自らの力で立つことができるようだった。ヴィクトールはそれを確認すると、するりとヘンゼルの首に首輪をつけて、柵と繋いでしまう。
「僕はここから離れるから、逃げたりしないように」
「え……」
「ねえ、ヘンゼルくん」
柵と繋がれてたじろぐヘンゼルに、ヴィクトールはにこりと笑いかける。そして、つ、と背中をなぞった。
「んっ……」
「からだ、まだ熱い?」
「……っ、」
ヘンゼルはかっと顔を赤らめて、弱々しくヴィクトールを睨みつける。しかし、全然迫力ないなぁ、とヴィクトールは笑うばかり。自分の腕と、柵の間にヘンゼルを閉じ込めるような体制をとると、彼の耳元に唇を寄せて囁く。
「……今夜、セックスしよう」
「……は、」
「意味わかるよね? 昨日とは違う。君とひとつになりたいって言っているんだ」
「……、……えっ」
ヘンゼルは一瞬眉をひそめてジロリとヴィクトールを睨んだかと思うと、たちまち顔を真っ赤にした。言葉の意味を理解するのに時間がかかったという風だ。
咄嗟に拒絶の言葉を吐こうとしたヘンゼルだが、それはかなわなかった。ヴィクトールに、抱きしめられたのだ。
「……本当はもうちょっと先の予定だったんだけど、調教の計画的には」
「……」
「……でも、君のことを抱きたくて堪らない。ひとつになりたい、君と」
ヴィクトールの腕のなかで、ヘンゼルはただ目を白黒させるばかりであった。彼の言っていることの意味がさっぱりわからない。ただ欲情しているだけじゃないか、そう一蹴することもできた。しかし、それができない。
声に帯びている熱。掠れた吐息。熱い彼の肌。
ヴィクトールから感じるそれらに、なぜかヘンゼルは胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。手を拘束されているわけでもないから彼を突き飛ばそうと思えばそうできたのに、それすらもできなかった。
「……今まで……俺の意志なんて聞かなかったくせに……今更なんだよ」
「……いい? ダメ?」
「……だから、っ、」
嫌だ、って言えばいい。なぜ言えない。ヘンゼルのなかでぐるぐると、何かが回る。
「……なんで、聞くんだよ」
「どうして答えられないの」
「昨日みたいに無理矢理ヤればいいだろ! いちいち俺に聞くな!」
「無理矢理が嫌だから聞いているんだよ」
「はぁ……っ!?」
ヘンゼルは思わず顔をあげてしまった。そうすれば、バチリとヴィクトールと視線が交わってしまう。ああ、しまった……この目、苦手なのに。頬を撫でられ、そしてヴィクトールが目を細めた瞬間に、ヘンゼルは顔をあげてしまったことを激しく後悔した。
「……そんなに言いづらい?」
「……」
「……じゃあ、いいなら目を閉じて。嫌なら、僕を押しのけてくれて構わない」
「え……」
なんだよ、なんなんだ。わけがわからない。まるで、俺の心を尊重するかのような、
混乱するヘンゼルの顔に、影がかかる。
――いいなら目を閉じて。
――嫌なら押しのけて。
「――……」
あと数秒。数センチ。早く決断を。なんで迷う。はやく、押しのけろ……!
「……、」
唇が、重なる。
時が、とまる。ホールは騒がしいというのに、その音すらも聞こえてこない。触れるだけのキスに、全身の感覚が支配された。
自分の鼓動だけが聞こえてくる。触れた唇から、この鼓動の高鳴りがヴィクトールに伝わってしまうのではないかと、ひやひやした。ぎりぎりと、心臓のあたりが苦しいから……早く、離れてほしい。
「……ヘンゼルくん」
長い長い、そんな気がしたキスを終えてそっと離れていったヴィクトールは、どこかホッとしたように微笑んだ。
「あ……」
それをみた瞬間、ヘンゼルのなかで何かがストンと落ちる。
――抱かれても、いいかも。
「ちっ……違う!」
「うわっ」
一瞬浮かんだ恐ろしい考えに自分でビックリしたヘンゼルは、衝動的にヴィクトールを突き飛ばした。驚いたような表情を浮かべるヴィクトール、そんな彼の表情が珍しくてまた胸がズキリと痛む。
「い、まのは……ちょっと、判断が鈍っただけで……」
「……ふうん?」
「べ、べつに……抱かれてもいいかなとか、そんなこと思ってなくて、」
「……あっは、そうかそうか」
しどろもどろに言い訳を連ねるヘンゼルを、ヴィクトールはケラケラと笑ってみせる。全部見透かされたような気がして、ヘンゼルはもう何も言えなくなってしまった。じとっと彼を睨みあげることしかできなかった。
むすっとした顔。そんなヘンゼルを見つめるヴィクトールの表情はどこか優しげだった。耳をくすぐるような笑い声を漏らすと、そっとヘンゼルの髪を撫でる。
「今日の夜」
「……っ」
「……楽しみにしてる」
じゃあね、そう言ってヴィクトールは踵を返し、ホールから出て行ってしまった。
「……意味わかんねえ」
彼が完全に扉から出て行ったことを確認すると、ヘンゼルはその場にずるずると座り込んだ。
「楽しみにしてて」じゃなくて、「楽しみにしてる」なんて言って。嬉しそうに笑ったりなんてして。
「……なんなんだよ」
ヘンゼルは膝を抱えて塞ぎこむ。弟を見ていて、絶対に自分は男に抱かれる側の人間になんてなりたくないと思っていた。そういうことをしている人たちを、軽蔑すらもしていた。それなのに、今の自分はどうだろう。抱かれることを拒絶する権利を与えられたのに拒絶しなかった。まるで、抱かれてもいいと、むしろ抱かれたいと、そんなふうに。
いやだ。いやだ。
自分が壊れていく、堕ちてゆく。今までの人生がすべて、汚れていく。こうして自分が歪んでいくことを嫌だと思っているのに、今日の夜、ヴィクトールに抱かれてしまうのだということを考えると、どこか浮ついてしまう自分が恨めしい。
だって、気持ちいいから、飛んでいけそうになってしまうから、彼の体が熱いから。
「ヘンゼルく~ん! どうしたのそんなところに座り込んじゃって」
「……ヴィク……じゃない、おまえ」
「ちょっと~そんな露骨に嫌な顔しないでくれよ。私のこと嫌い?」
鬱々とヴィクトールのことを考えているヘンゼルの頭上から、ひょうきんな声が降り注ぐ。ヴィクトールが戻ってきたのかと思って弾かれたように顔をあげたヘンゼルは、ソコに立っていた人物に顔を思い切りしかめた。
へらへらと笑ってヘンゼルの隣に立った男は――ドクター。ヘンゼルがここに来て初めて出会った、改造人間を扱っていた人物。ろくな思い出がなかったため、ヘンゼルは彼との距離をとろうと人一人分ドクターから離れる。
「えっ、ひどくない、そんなにさけないでよ」
「……近寄るな気持ち悪い」
「傷つくなァ~! まあ、いいや。団長からの言伝だ。キミにお菓子の家のルールを説明してあげよう!」
「……ルール?」
そのとき、ワッとホール全体が歓声で満ち溢れた。驚いて振り返ってみれば、ホールの中心にあるステージがライトに照らされ、その中心に人が立っている。
「Ladies and gentlemen! 今宵の僕たちのパーティーをどうぞ楽しんでいってネ!! 一緒に素敵な夜を過ごしましょう!」
「――ヴィクトール!?」
ステージに立っていたのは、少し前まで自分の側にいた、ヴィクトール。しかし、道化師の化粧済み。ヘンゼルは衝動のままに立ち上がって、柵から身を乗り出してステージを見下ろす。
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