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***  部屋に連れて来られ落ち着きを取り戻したヘンゼルは、ベッドの上でヴィクトールの腕に抱かれ、黙りこくっていた。昔からの友人に強姦されそうになったこと、その友人に痴態を晒してしまったこと。様々なショックに頭が真っ白になっていた。 「……ヴィクトール……」 「ん?」 「……俺、どうすればいい?」 「なに?」 「……帰る場所、ない」  ヴィクトールがテオの前でヘンゼルを抱いたことはただの決定打であり、ヘンゼルが住んでいた町に帰ることができない根本的な理由にはならなかった。だから、ヘンゼルはヴィクトールに恨みを抱くことはなかった。テオからヘンゼルがあの町でどのように見られていたのかという事実を告げられたときから、もうあの町には帰りたくないという思いがヘンゼルの中に生まれていたのだから。 「ここにいればいいじゃん。ずっと」 「……それは、だめだ。俺には弟がいる。俺の弟はここで暮らすことを望むことは絶対にない。……でも、俺の身勝手な理由だけど……あの町はもう……それに、親だって……あんな、俺達を売った親、」 「……まあ、トロイメライにはいくらでも金がある。君が望むなら、新しい町で暮らすことができるような援助はいくらでもできるけどね」 「……本当に?」 「……うん」  ヴィクトールに前髪を梳かれ、ヘンゼルはそっとヴィクトールの瞳を見つめた。その、ヘンゼルのどこか憂いを汲んだ瞳、震える睫毛にヴィクトールは静かに口を開く。 「……ヘンゼルくん。もしもグレーテルくんと一緒にここに来ていなかったら、君はずっとここにいたいって言った? ……これに君がどう答えるかによってグレーテルくんをどうにかするってことじゃなくて……ただ、純粋な僕の興味として知りたいんだけど」 「……そんな「もしも」の話に答えるつもりはない」  ヴィクトールにくるりと背中を向けてヘンゼルは布団を頭まで被る。これ以上問い詰められたらあらぬことを言ってしまう、そんなヘンゼルの様子にヴィクトールは胸がざわつくのを覚えた。その口から、聞きたい。ヘンゼルの本当の想いを。 「……ねえ、どうして君はさっき、僕が君をドールの一人としてしかみていないだなんて言ったの? なんであんなに傷ついた顔をして言ったの?」 「……うるさい。どうでもいいだろ」 「……ヘンゼルくん」  がさ、布団が擦れる音にヘンゼルはびくりと身動ぐ。そして、そっと後ろからヴィクトールに抱きしめられ、あまりの緊張に小さな声を漏らしてしまった。静かに、優しく腕に力を込められて、心臓は馬鹿みたいに激しく高鳴ってゆく。呼吸をすることも難しいくらいに、激しく。 「……好きなんだ。僕は、ヘンゼルくんのことが好きで好きでたまらない。……聞かせて、ヘンゼルくんは、僕をどう思っているの」 「……っ」  こく、自分の唾を呑む音がやけに響いた気がした。問われれば明確な答えが頭の中に浮かぶ、それはどんどん体内で膨らんでいって体を突き破りそうだった。でも、これは言ってはいけない。ヘンゼルに残された、最後の理性――ヴィクトールによって失われていったたくさんの命と心。この気持ちを言葉にし、認めてしまうということは、共犯者も同じ。言ってはいけない、言ってはいけない……この体は自分だけのものじゃない、弟を授かった体なんだ。痛い、胸が痛い。 「……ふ、」 「ヘンゼルくん……?」  気付けば涙が零れていた。歯を食いしばり、目を閉じて……ヘンゼルは悲痛に染まった涙を流す。この男に惹かれてたまらない自分が憎い、抱きしめられて嬉しいと、好きだ愛していると言われて幸せを覚える自分が恨めしい。涙は鉄を腐食する硝酸のように、罪の意識を心に刻みつける。 「あ、あああ……」  こぼれ落ちる嗚咽。彼の体に触れるところからこの体を侵食してゆく熱。  無残に死んでいった体を弄ばれたドールたち。頭の中に浮かんでは、ヴィクトールの仄かな熱にすうっと消されてゆく。  ……赦してください。ごめんなさい、赦して…… 「……っ!」  ずる、布団がずり落ちる。ヴィクトールが目を瞠る。  体を起こしたヘンゼルが、静かにヴィクトールの体の上に乗った。泣きながら、枯れゆく花の花弁のような涙をはらはらと流しながら。 「……ヴィクトール……」 「……、」 「俺は……」  罪悪感に蝕まれ喘ぐ吐息。ヘンゼルの口から続きがでてくることはなかった。その理性と本能に挟まれ葛藤する姿は息を呑むほどに美しく、ヴィクトールはいつものように催促することも、体を動かすこともできず、ただ自分の上で涙を流すヘンゼルを見上げていることしかできなかった。 「……ヴィクトール、おまえは、どうしようもない悪党で、赦されるべき人間じゃない」 「……」 「おまえは、知らないだろ、自分がどれほど大きな罪を犯しているのかも理解していない……だから、俺がこうすることに、どれくらいの覚悟が必要なのか……知らない、」 「ヘンゼル、く……」  震える声で、糾弾の眼差しで。ひとつひとつ、絞りだすように発された言葉に誘われるようにヘンゼルの名を呼ぼうとしたが、それはできなかった。ヴィクトールの唇は、……ヘンゼルの唇によって塞がれてしまったから。

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