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――自分自身が囮になり、ヘンゼルをここから逃す。それがヴィクトールの頭に浮かんだ考え。
バケモノは、ヴィクトールへの恨みのみで動いている。ヘンゼルや椛に狙いを定めることは、恐らくはないだろう。ヴィクトールがここでバケモノを引き止めれば、ヘンゼルと椛の命は助かる。
ヴィクトールは椛がここに現れてくれて、心底良かったと思った。きっと彼が現れなければ、ヘンゼルはヴィクトールが囮になると言っても一緒に死ぬなどと言い出しかねない。しかし、椛がいれば。弟を連れておきながら、兄であるヘンゼルはそれを言うことはできない。そのはずだ。
「いいかい、あのバケモノに襲われようと僕が即死するということはない。少なくとも一分は時間を稼げる。その間に君たちは、ここから出てあの扉を閉め、建物から脱出するんだ」
「……なに、言って……」
「……!?」
ヴィクトールの言葉に驚いたのは、ヘンゼルだけではなかった。扉の側に立って聞いていた椛も同じである。ただの外道だとばかり思っていた男が、自分を犠牲にしてヘンゼルを救おうとしているのだ。自分勝手に兄を愛して、兄の未来を奪った彼が――ここまで純粋に兄を愛しているとは思っていなかった。
「ヴィクトール……大丈夫だ、一緒に逃げよう、逃げ切れる、きっと……!」
「無理だ。上の階にいけば足場が悪くなって思うように逃げることはできない。ここで僕がヤツをひきつけるから、二人はその間に脱出しろ」
「待てよ……嫌だ、だったら俺も……俺も、ここで死ぬ」
「ヘンゼルくん……! 君には弟がいるんだ! 逃げろ、二人でここを出るんだろう!」
「……っ、……椛……椛、ごめん……俺をおいて、逃げて」
「――ッ」
ヘンゼルのことは好きだ。一緒に逃げたい、ここを一緒に出たい。しかし、このヴィクトールの姿をみて、その椛の想いが揺らぐ。本当にヘンゼルはそれを望んでいるのか、ヴィクトールを見捨てて逃げたところで幸せになれるのか、……そして、残されたヴィクトールは孤独に死んでいくのか。
椛の脚が震え、そして一歩、後退する。ここでヘンゼルと逃げても……彼は辛い想いをするだけ。一緒に死んだほうが、いっそ……幸せなんじゃないか。
「兄さんは……兄さんは、とんだバカだ」
「うるさい、はやくいけ、椛!」
「ああ、いくよ、兄さんが……兄さんが、そいつと死ぬことを望むんだったら……無理に、引き離せない」
溢れそうになる涙を寸でのところで堪えて、扉の取っ手に手をかける。泣いてたまるか、絶対に泣かない。ヘンゼルの心を完全にとらえたのは、ヴィクトール。敗北したのだと、宣言なんて、しない。
「……兄さん……! 幸せになれ、この……バカ!」
「……ごめんな、椛……ありがとう」
ガコン、と大きな音をたてて、扉が閉められる。死ぬ直前にあんなに幸せそうに笑うなよ、そんなにアイツと一緒に死ねることが嬉しいか――扉を隔てて聞こえてきた大きな物音に、椛はボロボロと涙を流す。
――ジ
「……うっ!?」
――ジジ
突然、割れるような痛みが頭の中を蝕んだ。そして、何やらぶつぶつと念仏のように誰かが独り事を言っている声が聞こえてくる。驚いて椛が振り返ると――そこにいたのは、自分。手にはカッターを持っていて、うつむき、何度も何度も自らの手首を切りつけている。念仏のようなものは、耳をすませて聞くと「愛してよ」と繰り返し言っているもののようだ。
何が起こっているのかわからずに、椛がじっと彼をみていると、彼は突然勢い良く顔をあげて、言う。
「ココデ彼ガ死ンダラ君ヲ守レナイデショ。彼ノ役目ハマダ終ワッテイナイ」
――ジジジジジ
「ヴィクトール……大丈夫だ、一緒に逃げよう、逃げ切れる、きっと……!」
「無理だ。上の階にいけば足場が悪くなって思うように逃げることはできない。ここで僕がヤツをひきつけるから、二人はその間に脱出しろ」
「待てよ……嫌だ、だったら俺も……俺も、ここで死ぬ」
「ヘンゼルくん……! 君には弟がいるんだ! 逃げろ、二人でここを出るんだろう!」
「……っ、……椛……椛、ごめん……俺をおいて、逃げて」
「……え」
このシーンに、既視感。そうだ、ついさっきヘンゼルとヴィクトールが交わした会話……時間が、巻き戻ったのだ。椛は驚きに固まってしまう。何がどうなっているのかわからない、白昼夢でもみたというのか。
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