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「……兄さん」
しかし、わからないながらも予感はした。先ほどと同じようにヘンゼルをヴィクトールのもとに置いて自分だけ逃げようとすれば、きっとまた――このシーンを繰り返す。違う選択肢をとらねばならない、ヘンゼルを――
「兄さんは、僕と逃げるんだ」
「……ちょ、……待て、椛……!」
――ヘンゼルを無理やりでもヴィクトールから引き離し、一緒に逃げるのだ。
椛は部屋にはいるとヘンゼルの腕を掴み、勢い良く引っ張った。それと同時に「C」の少年が慌てたように鍵を床に叩きつける。バケモノは目が覚めたようにうなり声をあげ、三人のもとへ突進してきた。死に物狂いで、走る。椛はヴィクトールへ手を伸ばすヘンゼルの抵抗も無視して、全ての力を振り絞って、ヘンゼルを引きずるようにして走った。
「離せ……離せ、椛!」
「だめだ……兄さんはここで死んじゃだめなんだよ!」
「しらねえよ、ふざけんな、アイツがいない世界でなんて、俺は生きたくない!」
「一緒に生きて欲しいって思っている僕の想いを無視するな! 兄さんの体は兄さんだけのものじゃないんだよ!」
「……ッ、でもッ……、いやだ……ヴィクトール……、ヴィクトール!」
扉まで、辿り着く。振り返ればヴィクトールが立ち上がり二人の盾になるようにしてバケモノに襲われていた。カッ、と涙がこみあげてきて――それでも椛は扉に手をかける。そのとき、ヴィクトールが静かに口を開いて、呼びかけるように言った。
「グレーテルくんだっけ。僕が許してあげるんだから、何が何でも幸せになってよ、ヘンゼルくんと」
「……ッ」
「それから」
襲われ、噛み付かれたところから大量の血を流しながら……ヴィクトールは振り向いた。そして、椛の後ろで泣き崩れているヘンゼルをみつめ、笑った。
「ヘンゼルくん。君はお兄さんなんだから、弟を守る義務があるんだよ。いつまでも泣いてちゃだめだ」
「……ヴィクトール」
「……ね、ヘンゼルくん。……君と出逢えて、ほんの短い間だけだったけど、夢のように幸せだったよ。出逢いはたぶん最悪のかたちだったと思うけど……僕はね、本当に君を愛していた。……ヘンゼルくん、大好きだよ」
「ヴィクトール……俺……俺も、」
「……ッ、グレーテルくん、扉をしめろ!」
ぐらりとヴィクトールと体が倒れる。その勢いにのって、バケモノがこちらまで走ってくる。
椛は唇を噛み締め、一気に扉を閉めた。重い音をたてて扉が閉められると、同時に中からヴィクトールの体が扉に叩きつけられた、そんな鈍い音がした。鋼鉄製の扉は、そう簡単に勢いだけで開いたりはしない。何度も何度も聞こえてくる惨(むご)たらしい音に、二人は耳を塞ぎたくなった。
「……ッ」
ヘンゼルが扉に縋りつくようにして座り込んだ。扉の下から血がのびてきてヘンゼルの服に染みてゆく。肩を震わせて、声にならないような泣き声をあげ……あまりにも悲痛なその後ろ姿は、椛にほんとうにこれで良かったのかと、そんなことを思わせた。
「……兄さん、」
「……言えなかった」
「え?」
「……たったの一度も、ヴィクトールに……好きって言えなかった……!」
……やはり、彼を生かしたのは間違いだったのではないか。無理やりヴィクトールから引き離し、この扉を隔てて声も届かない安全地帯へ引っ張りこんだのは……ヘンゼルにとって幸せから程遠い選択肢だった。しかし時間が巻き戻らないということは、これが正しい選択肢だということ。
「正しい」ってなに。この世界の「正解」って、なに。
「……椛」
「……あの、兄さん……ご、ごめん」
「……ごめんな、こんなお兄さんで」
「えっ……」
ヘンゼルが振り返り、呆然と立ち尽くす椛を見つめる。涙に濡れた瞳が、酷く美しかった。
「……おまえがいるのに、俺はヴィクトールのことをどうしようもなく愛していた。だめだってわかっているのに、俺は俺の幸せをどうしても捨てられなかった」
「……いや……僕が、兄さんの幸せを、邪魔して……」
「今更なんだよって思うかもしれないけどさ……俺に、おまえのこと守らせて。……椛」
「……っ!」
「ヴィクトールが俺たち兄弟を守ってくれたなら……俺は兄として、おまえを守る。俺は自分自身のことがよくわからない。でも、俺はおまえを守るために生かされた……なんとなく、それはわかるよ」
立ち上がったヘンゼルが椛を横切り、部屋に散らばる実験器具をあさりだす。メスや注射器などをみては少し悩んで、やがて銃をみつけるとそれを手にとった。そうして気丈に振る舞って小さくしゃくりをあげながら時折涙を拭っている姿は痛々しい。
「弟を守りたい」という想いと「ヴィクトールと最期まで寄り添いたかった」という想いが彼のなかでせめぎ合っているのだろう。
「ここからでたら……どうしような。椛、おまえは元の町にもどる? もう体を売る必要もないと思うよ」
「……兄さんは?」
「んー……俺はもうあの町に戻れないし……旅にでもでようかな」
「……」
二丁目の銃を手に持って静かにそう言ったヘンゼルが綺麗だと、椛は思った。なんとなく、ヘンゼルの言葉の意図を感じ取る。……死に場所を探しにいきたいのだな、と。ヘンゼルのなかではヴィクトールが永遠の存在なのだ。悔しい、そう思いながらも何故か嫉妬は覚えない。
「いこうか、はやくしないと建物が崩れる」
「……兄さん」
「……!」
椛は静かにヘンゼルの手をひいて、唇を重ねた。乾いた唇に喪失感を覚える。欲しいと思ったときにはすでに違う人のものになっていて、体だけではなく心も完全にその人のものになっていた。このキスは、謝罪と決別のキス。唇が離れたら、ほんとうの兄弟に、戻ろうか。
特に驚いた様子もなく椛を見下ろすヘンゼルは、唇が離れるとそっと笑う。
「……ごめんな、椛。あと少しの間だけ……兄としてかっこつけさせて」
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