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研究室をでて廊下を抜けてゆく。一度通ったときには気づかなかったが、建物内にアルコールの臭いが充満しているような気がした。上へと昇ってゆく炎も、このドールが撒いたと思われるアルコールによって下の階まで降りてきているのだろう。上の階への階段の壁はすでに火が燃え移っていて、急がなければ足の踏み場がなくなってしまいそうだった。
「椛……気をつけて、」
「……う、わ……ッ、兄さん、何か、」
ヘンゼルが先頭にたち、一段目に足をのせたそのとき。上から何かが鈍い音を立てて転がり落ちてきた。二人が慌ててそれをさけてみれば、それは金色の糸が巻き付いた玉のような……
「……人の首……」
生首だった。よくよくみてみれば、その首は以前ヘンゼルがショーの舞台袖で話したことのある、ヴィクトールを敬愛しているバニーガールのものだった。白目をむいているその首は恐らく、生きた状態で首をはねられたもの。二人が恐る恐る視線を上へと移すと、そこに一人の少年が立っている。
「……あれ、ヘンゼルくんじゃん。どうしたの? ヴィクトールは? 死んだ?」
「C」の少年だ。トロイメライへの復讐を目的としている彼らは、もはや建物から脱出することは考えていない。トロイメライを根絶やしにすべく、こうして一人ひとり殺してまわっているのである。
「……どけろ。時間がない」
「えー、やだよ。俺、なんか君が助かるの癪だし」
「……」
「俺、個人的にヘンゼルくんのこと好きじゃないんだよね。君の噂をきいたときからさ、なんか無性にイライラして。だってちょっと顔がいいだけで俺たちなんかよりずっといい扱いされたんでしょ? 腹立つ。おまえみたいなビッチが最後までいい思いできると思うなよ」
少年が手にもった鉈を持ち上げ、二人に刃先を向ける。少年の足元には、四肢を切り落とされたバニーガールの死体。少年は鉈を使ってトロイメライを虐殺しているのだ。
「おまえもこの女と同じようにバラバラにしてやるよ」
「……どけ、邪魔するなら撃つぞ」
少年の冷たい声が二人を刺す。しかし、ヘンゼルは至極冷静に銃を構え、震える椛を庇うように一歩踏み出した。
「はっ……おまえみたいにヴィクトールに媚びへつらっていたビッチがそんなもん使えるとは思わないけどね。撃てるの? それ、人を殺す道具だよ」
「おまえに俺がどう映っているのかしらねえけど……俺はもともと町の片隅のゴロツキだよ、こんなの使い慣れてる。……それに」
ヘンゼルが銃のハンマーを起こし、銃口を少年に向ける。
「おまえを殺さないと弟が救えないなら――迷いなく、殺してやるよ」
「……!」
ヘンゼルの指が引き金に添えられるのを目に留め、少年は一気に階段を駆け下りた。少年が鉈を振りかぶり、ヘンゼルに斬りかかる。しかしヘンゼルはその場を動かない。少年の心臓に狙いを定め、呼吸を整え、そして銃口の先にその一点がきた、その瞬間。躊躇なく、引き金をひいた。
「――ッ」
耳を劈くような銃声と共に、少年の影が視界から消える。するりと少年の手を抜けた鉈が跳ねながら階段を落ちてくるのを、ヘンゼルは椛を庇うようにして後退し、避けた。続いてごろごろと転がり落ちてくる少年の死体。見開かれた瞳と目が合ったような錯覚を覚えた椛は、思わず悲鳴をあげる。
「……いくぞ、椛」
「……っ、うん」
人を撃ったというのに表情ひとつ変えようとしないヘンゼルに椛は息を呑んだ。これが、人を守りぬくと決意した兄の顔。昔、自分が生きるためだと人を踏みにじってきた時と、やっていることはあまり変わらないというのに顔つきはまるで違う。ヴィクトールという男に愛され、そして愛して、人の心を知った上で椛を守るために人を殺す。きっと、引き金はあの頃よりも重いだろう。それでもヘンゼルは、それをひく。
(……兄さん)
自分が傷つくのが怖いから人を傷つけると言ったあの頃の彼はもういない。ヴィクトールがヘンゼルに与えたものはあまりにも大きい。ヘンゼルの側にいればいるほどにそれを感じてしまい、椛のなかでは疑問ばかりがふくらんでゆく。この世界は……ヘンゼルやヴィクトールの幸せなど、どうでもいいというのか。この世界は……
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