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***  上の階へとのぼっていくと、地上へあがる階段がすでに崩れ落ちていて行き止まりになっていた。無理やり通ろうものなら脚に大火傷を負いかねないその様子に愕然とする椛に、ヘンゼルは言う。 「……あっちのほうに客の入場用の階段があるはずだ、そっちにまわろう」  しばらくトロイメライの雑用をしていたヘンゼルは、お菓子の家の構造のほとんどを把握していた。この階はショーを行う広いホール。現在椛とヘンゼルが使っている階段は団員が使う裏の階段であり、ホールにでてそこを突っ切れば、客が普段使っている階段があるのだ。 「……なるべくドールたちにみつからないように行きたいけど……ホールだからほとんど丸見えだよなあ」 「……銃弾はどのくらい残っているの?」 「さっき使ったのをひけば……9発だな。二丁あるから」  ドールは合わせて17人。そのうち1人は先ほど殺し、もう1人は実験室、そして収容室で自害したドールも1人。残る14人はホールにいる可能性がある、明らかに弾数が足りない。 「悪いな、俺がドールたちに顔覚えられているせいで」 「ううん……兄さんがいなければ僕はここからでることもできない……銃の使い方も知らないし、使う勇気も僕はもっていないから」  ホールの入り口の前にたち、ヘンゼルが静かに息を吐く。弟を守りぬく、その心の準備。弾が足りなくても、なんとかしてみせる。 「入るぞ、入ったら一気に走りぬけ」  思い切り、床を蹴る。二人はホールに踊り出て、駆け出した。ホールのなかは炎に包まれ、視界が妨げられるほどに煙が充満している。これならドールたちにみつかることはない、と安心はしたが、同時に障害物を把握できない。崩れた柱や天井がどこにあって、どのルートでいくべきか計画をたてることができない。 「……!」  走りながら出口へのルートを模索していると、至る所に団員の死体が転がっていた。その全てが酷く肉体を破損している見るに耐えないもので、二人は見つけるたびに目を逸らす。 「あれ、君、ヘンゼルじゃない?」 「……!」  どこからか、声が聞こえてきた。ドールだ。ヘンゼルが銃をかまえ、彼が煙のなかから姿を現すのをじっと待っていると。 「おーい、ここにヘンゼルがいるぞ!」 「!?」  そのドールは恐ろしいことに、周囲のドールに椛とヘンゼルの居場所を伝え始めた。なるべくドールと鉢合わせないように出口までたどり着きたかったのに、そんなことをされてしまってはかなわない。煙のせいで周囲の様子が見えない今、ドールがどこから現れるかわからず、ヘンゼルは震える椛を抱くようにして引き金に指先をのせた。 「――ッ!」  発泡音と共に、ヘンゼルの脇腹に強烈な痛みが走る。撃たれた、ヘンゼルの銃創から溢れる血に椛は顔を青くしてふらついたヘンゼルの体を支える。痛みで歪む視界、生じた目眩、ヘンゼルはそれらに耐え、足を踏ん張り腰をひねって、銃弾が飛んできた後方に銃を向けた。煙の中に影がある、恐らくソレが撃ってきたドール。外せば貴重な銃弾が無駄になる、ドールが完全に姿を現すのを待つのが懸命か、しかしもう一度撃たれてしまえばそれはもう致命傷となる―― (――撃て!)  引き金をひく。同時に煙の中の影は沈み、二人は一安心する。しかし、それと同時に複数の影が四方八方から迫ってきた。先ほどの呼びかけに応じたドールたちだ。突然に敵に囲まれて、さすがのヘンゼルも軽度のパニックに陥ってしまう。どれから撃てばいいのかわからない、闇雲に撃って弾を無駄にするわけにはいかない―― 「死ね!」 「……ッ!」  脇から飛び出してきたドールが手に持っていたのは、サーカスのパフォーマンスでつかわれていた、剣。剣の軌道はそのままいけば椛に命中するもので、ヘンゼルは慌てて椛の体を引いて、椛の前に躍り出る。 「兄さん!」    刃はそのままヘンゼルの左半身を斬り裂いた。しかしヘンゼルは歯を食いしばり、ドールの頭を銃で撃ち抜いた。 「椛! 伏せろ!」  ドールの手から剣が滑り落ちるのを確認すると、ヘンゼルは焼けつくような痛みに耐え、すぐに振り向いた。そして、ヘンゼルの後ろに立っていた椛を襲いかかるようにしてパイプを振りかぶってきたドールにあわてて銃口を向ける。 「……っ」  必死に自分を守りぬこうと血飛沫のなかを舞うヘンゼルを、椛はただただ震えながら見上げる。何人ものドールに囲まれながらもギリギリのところで一人、またひとりと倒してゆく彼は、少しずつその体に傷を負ってゆく。椛が襲われれば身を挺してかばって、そしてまた傷を増やし。襲ってきたすべてのドールが床に伏したころには、ヘンゼルは満身創痍となっていた。 「……兄さん……傷……」 「……大丈夫だ、……いくぞ、椛」  額から流れる血によって片目は潰れ、半身に大きな切り傷を負って片腕は使い物にならない状態、腹に攻撃をうけたせいか口から血を流し。なぜそれで立っていられるのかと、疑問に思うくらいの傷をヘンゼルは負っている。 「……っ、兄さん……! 僕も……僕も、兄さんと一緒に……」 「だめだ。おまえは俺の後ろに隠れていろ」 「だって……! だって、こんなに傷を負ったら、兄さんは……!」 「……いいんだよ、俺は」  椛の手をひき、ヘンゼルは歩き出す。 「……俺の役目を果たさせろ、バカ」  熱風で息が苦しい、煙で目が痛い。そのなかを、ヘンゼルが椛の手をひいて走ってゆく。弾の数はあと少し、ドールに見つかれば命の保証はない。それでも彼の背中はどこか頼もしい。自分をかばったことで大怪我を負っているヘンゼルに後ろめたさを感じながらも、椛は安心感を覚えていた。 「椛、俺な……」 ヘンゼルが振り返ることなく、呟く。すぐ近くに瓦礫が落ちてきて、激しい音をたてる。 「俺はおまえのために生まれてきたんだと思う」 「……なに、言って」 「なにもかもが、うまくいかない。好きな人と結ばれることもなく、体だってコントロールできない。俺の運命がなにかの糸に操られているみたいだ」 「……っ」  ヘンゼルの運命……それを操ったのは、紛れも無く自分だ。あの時空の歪みさえなければヘンゼルは今頃、ヴィクトールと共に死を選べていたはずなのに。この世界にはひとつの正解がある。ヘンゼルの幸せを奪ってでも彼を生かさなければいけない理由がある。椛にはその答えがわからない。しかし、運命を操られたヘンゼル自身がまるでそれを悟ったように、言葉を紡ぐ。 「「兄」は――」  煙の流れが変わり始める。黒い煙がひとつの場所に吸い込まれてゆく。 「「兄」は、弟を守り、弟を愛するための存在」  ――出口。地上へ出るための、出口だ。上の階にあるのは小さな建物、その出口をでればほぼ確実に助かるだろう。椛が希望を胸に抱いた、そのとき。出口である階段のすぐ上の天井に、亀裂が入る。 「悪いな、椛。俺が好きなのは、ヴィクトールだ。体も心も、おまえにはやれねぇ」 「兄さ……」 「でも俺はおまえを、弟としてちゃんと愛してるよ。だから――」  ヘンゼルの椛を握る手に力が込められる。無理をして走っているのか、ヘンゼルの体からは血が溢れている。視線をあげたその先、亀裂のはいった天井は崩れ落ち―― 「――だから、俺の命をやるよ!」  巨大な瓦礫が出口を塞ぐように落ちてくる。あれで出口を塞がれでもすれば――ここから脱出することは不可能になってしまう。あと少し、出口に辿り着くまで、あと少し――  ヘンゼルが全ての力を振り絞るように全力疾走し、椛を思い切り引っ張る。その体のどこにそんな力が残っているのか、そう椛が思ってしまうほどに、力強い。間に合うか、間に合わないか――まさに一触即発。 「いいか、椛、よく心に刻んでおけ!」 「……ッ」 「おまえはこの世界で、何を幸せとしているのかしらねえけど! ここまで俺を振り回したんだから、俺に愛されたら素直に喜べよ、馬鹿弟が!」  あと一歩――間に合わない……! 絶望に椛の心が堕ちたとき、突然、椛の体が前進する。ヘンゼルが体を捻り、椛の体を振り回すようにして無理やり前に進め、そして力強く蹴り飛ばしたのだった。勢いのまま椛はふっ飛ばされ、出口への階段に思い切り倒れこむ。  間に合った、瓦礫が落ちるまえにここへたどり着いた――でも、ヘンゼルは…… 「俺の弟のおまえは、世界一の幸せもんだ、椛!」 「――兄さん!」 「……ッ、愛してるぜ、椛!」  椛の目の前に、瓦礫が落ちる。そう、椛と、ヘンゼルの間に。  完全に出口が塞がれた。椛だけが上の階への階段に辿り着いたのだ。ヘンゼルは椛を突き飛ばし、自分だけが中へ残ったのだ。 「……兄さん? ……兄さん!」  そんな、まさか。目の前にずっしりとそびえ立つ瓦礫。どう足掻いてもそれを退かすことは不可能で、椛は絶望に泣き崩れた。ヘンゼルが、自分のために命を捨てた。自分のために…… 「兄さん……兄さん……」  時間が巻き戻らない、つまりこれが正解。ヘンゼルは椛を救うために生きたということだ。  思えばヘンゼルは「他人を蹴落として生きていく」、「自分が苦しいことはしない」、そんな人だった。それなのに、トロイメライのなかに入って抵抗する様子もなくいたのは――椛を救うため。椛を救うために、自分の信念を捨て、ましてや何よりも嫌いだったセックスまで受け入れた。ヘンゼルへの恋心はたしかに破れた、それでもヘンゼルは弟として、自分を誰よりも愛してくれた――  あの暗い町にいたころだって、憎まれ口をたたき自分を嫌悪しながらも、優しく抱きしめてくれたじゃないか、絶対に見捨てようとしなかったじゃないか…… 「……兄さん、」  あんなに愛されていたのにそれ以上を求め、彼を傷つけて。遅い、全てが遅い。気付くのが、遅かった、自分がどれだけ幸せな人間だったのかと。どんなに苦しくても、ヘンゼルが、兄が愛してくれたのならば…… 「……大好き」  この世界に生きる自分は、幸せだったのだと。

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