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もう建物のほとんどが崩れかかっていた。辺り一面を囲う炎と瓦礫が行く先を阻む。それでも「そこ」に辿り着いたのは、運が良かったのかもしれない。
ヘンゼルは、実験室の扉の前まできていた。すでに地下二階も炎に包まれていて、辿り着くのに苦労した。酷使した脚はガクガクと震え、気を抜けば倒れてしまいそうだ。
「……」
震える手を、扉にかける。ヴィクトールを置き去りにした、この部屋の中はどうなっているだろうか。あのバケモノに襲われたヴィクトールの体は、もしかしたら八つ裂きになっているかもしれない。ドクターやバニーガールのように、見るも無残な死体になっているかもしれない。見るのは怖かった。それでも、ヘンゼルは最期くらいは彼と一緒にいたかった。
――一息ついて、扉をあける。
「あ……」
ヘンゼルはその場に立ち尽くす。そして、その状況を把握し――ぺたりと崩れ落ちた。
体の力が抜けてしまった。
そして、初めて思った。
――神様は、いる。
「……ヘン、ゼル……くん?」
ヴィクトールは、生きていた。全身からおびただしい量の血を流し、右腕が食いちぎられてはいたが……たしかにその目を開いて、ヘンゼルをみたのだ。
部屋の奥に、ドールとバケモノが折り重なって死んでいる。ヴィクトールを散々に嬲ったバケモノは、興奮のままにドールにターゲットを変えて襲ったものの、改造人間特有の短命のため、そこで息絶えた。奇跡だった。ヴィクトールが僅かの命を残し、そして敵のいないこの状況は。
「……ヴィクトール……俺の声、聞こえるか」
ヘンゼルはそっとヴィクトールの頬を撫でた。その肌の仄かな熱は、彼が生きているのだと証明している。ヘンゼルは、手のひらにじわりと染みてゆくその熱を感じながら、こみ上げる歓びに耐えるように唇を噛んだ。しかし、ヴィクトールの瞳が瞬き、そして静かに頷いた瞬間――ヘンゼルの瞳から涙が零れ落ちてしまう。
後悔したんだ、死ぬと思った瞬間に、このことをすごくすごく、後悔した。貴方に言えなかった言葉があったと。悪と言われる貴方を好きになってはいけないと、そのしがらみがこの言葉を封じ込めた。でも、もうそんなしがらみは存在しない、死にゆく命を縛るものなんて、何もない。
「ヴィクトール……好き、大好き……ずっとずっと、大好きだった……」
次々と溢れてくる涙を、ヘンゼルは拭わなかった。ヴィクトールの頬に涙の雫が落ちると、彼も笑って、泣いた。
「ごめん……今まで言えなくて、ごめん……ヴィクトール……好き」
「……ううん、ヘンゼルくんが僕を好きなのは、知ってた、一緒にいられて、幸せだったよ……でも、改めて聞くと……嬉しくて、……ごめん、泣いて。みっともないね」
「……っ、俺も、幸せだった……ヴィクトール……」
今まで言うことができなかった淋しさを埋めるように、ヘンゼルは何度も何度もヴィクトールに愛を囁いた。「好き」と言うたびに胸が満たされ、それを聞いたヴィクトールが嬉しそうにしているところをみれば幸せな気持ちになった。自分たちが普通の恋人だったら、こんな幸せをずっと感じていられたんだろうな、と考えると少し悲しくなる。
「ヴィクトール……もしも生まれ変わったら……また、おまえを好きになってもいい?」
「……うん。次はきっと……僕が君を、誰よりも幸せにしてみせるからね」
「今も十分幸せだけど……うん、それ以上。楽しみにしてる」
もっと、ヴィクトールと幸せな時間を過ごしたい。そんな叶わなかった夢にヘンゼルは想いをはせる。次に目を開けたら、またヴィクトールのそばにいられると考えると、哀しみも薄らいでいった。
……くらりと目眩がする。じわりと痺れたように熱くなってゆく頭に、ヘンゼルは体の限界を感じ取る。倒れこむ前に、ヘンゼルは自らヴィクトールに寄り添うように横になった。いつも、ベッドで一緒に寝るときのように。
「……次はどんな風に出逢うと思う?」
「……僕はきっと、人を幸せにできる仕事をしているから……ヘンゼルくんがお客さんとしてそこにくるんだ」
「……どんな仕事? お菓子をつくったりする仕事とか?」
「……似合わないね、それ、僕に。でも……そうだね、誰かの誕生日のプレゼントになるようなケーキをつくったりしてる」
「ううん……ヴィクトールが誰かのためになにかをやってるの……みたいよ。似合ってる、人の笑顔ために頑張るの。そんなおまえに抱いてもらって、俺、幸せになるよ」
「……次もヘンゼルくん、抱かれる側がいいの?」
「……うん。俺、ヴィクトールに抱いてもらうの、好きだから。気持ちいいし……すごく、幸せな気持ちになれる」
息のかかるような距離で、掠れ声で、想いを囁きあった。もう体は瀕死で、目の前に死が見えているというのに、すごく幸せだった。いつもと同じように会話をして、そしていつもよりも素直に気持ちを伝えることができて。体中が痛くて痛くて堪らないのに、二人はくすくすと笑い合って、幸福感に泣いていた。
「……ヘンゼルくん」
「……ん」
「お願いがあるんだけど」
「なに?」
「……おやすみのキスしてくれる?」
「……!」
ヴィクトールが絞るような声で、ヘンゼルに言う。
――ああ……
全てを悟り、ヘンゼルは……微笑んだ。もう、時間か。見るたびに震えた、ヴィクトールの紅い瞳に陰りが生まれている。
「……ヴィクトール」
痛みでずしりと重い腕をゆっくりとあげて、ヴィクトールの頬に触れる。そして、そっと唇を重ねた。
「……おやすみ」
唇が離れると、ヴィクトールは嬉しそうに笑っていた。唇が、「ヘンゼルくん、」といつものように動く。でも、声は聞こえなかった。
――涙で濡れた瞳が、閉じられる。
「ヴィクトール……」
本当に、眠っているみたいだ。……きっと、また目が醒めると思うよ。そうしたら、今度はおはようのキスをしようか。
「俺も……眠いかも」
貴方のそばで命を終えられることを、幸せに思う。この人生に、幸福など必要とされていなかったかもしれないけど。
――俺は、幸せだった。
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