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深夜一時。雷の音で目を覚ました椛は、時計をみてふと思う。もうすぐ丑三つ時だ。神かくしの時間。もしも噂通りにあの世にいけたなら……自分は幸せになれるのだろうか。人生をやり直せるのだろうか。
布団を抜けだして、部屋をでる。もう家の者は皆寝静まったはずだ。静かに屋敷を出ることは可能ははず。
足音をたてないように、そっと歩く。硝子窓を雨粒が叩く。雷の音が耳を劈く。頭が痛くなってくる。歩いて歩いて……いつもの廊下が、なぜかひどく長く感じた。暗闇のなか、雨の音を聞きながら歩いていると、ものすごく心細くて、今にも泣き出しそうになってしまう。耳を塞いで、うつむきがちに――歩いていると、何かにぶつかってしまって椛は悲鳴をあげた。
「……あ、」
「……椛、おまえこんな時間に何をしている」
ぶつかったのは、群青だった。昼間と違って着物を着ていたため、一瞬誰だかわからなかった。
「……えっと……トイレに」
「へえ……トイレはこっちじゃねえけどな」
「あ……ぐ、群青こそ何をしてるの」
「……見張り。この時間は俺がこの屋敷の見張りをしている」
「そっか……」
まさか群青にみつかるとは思わなかった。抜け出すのは諦めるしかなさそうだ。
「おい」
「……な、なに」
部屋に戻ろうと群青に背をむけたところで、声をかけられる。おずおずと振り向けば、顎を掴まれて上を向かされた。椛がぎょっとして引きつった笑みを浮かべると、群青はまじまじと椛の顔をみつめ、言う。
「……なんで泣いてんだよ」
「え?」
泣いてる?
言われてはじめて、椛は自分が泣いていたことに気付いた。あわてて涙を拭って、何事もなかったように群青の手を払う。雨の音が怖くて、自分が嫌いで、寂しくて泣いていたなんて……絶対に彼には知られたくない。
「もしかしてさ、」
「……なに」
「……怖いの」
「え?」
「椛……おまえ、雨の音が怖いのか」
「……っ!?」
図星をつかれて椛は驚きに瞠目した。「雨の音が怖い」なんて、そんな稀有な理由を、なぜ群青は知っているのか。群青は紅と違って「真実の目」を持ってはいない。心を読むことなどできないはずなのに、なぜ。
――そこで椛は、あの夢を思い出す。『雨が怖いって言っていたでしょう』そう言って、自分を抱きしめた夢の中の群青を。あの群青は知っていた、自分が雨が怖いということを……でも、あれは夢。現実の群青とは、違う。
……違う。
「……ッ」
固まって、ぐるぐると考え込んでいる椛を、仄かな熱が包み込む。なにが起きたのか、一瞬わからなかった。そして、信じられなかった。
群青に抱きしめられたのだと、そんなことは信じられなかった。
「えっ……群青?」
「……ああ、すげえ嫌な臭いがする」
ぐ、と腕に力を込められる。なんで、なんで……こんなことに。いつもお互いにきつい言葉しか吐かないのに、そんな群青にこんな風に抱きしめられるとわけがわからなくなる。嫌な臭いがするなんていいながら、群青はしっかりと、椛を抱きしめていた。
――体温が、高い。群青の体は、あの夢と同じように、体温が高かった。今まであまり触れたことがないからわからなかったけれど。
「……雨の音は、寂しさを強くするから、怖い。そうなのか」
「な、……ち、違う、勝手なことを言わないでよ」
なんでそこまで言い当てられるんだ。まるで夢を覗かれたような心地になって、恐ろしくなって、椛は群青を突き飛ばした。かあっと体が熱くなる。夢の中で群青に愛された記憶がよみがえる。まさか、あの妄想じみた夢の中の群青と同じような声で、そんなことを言われるなんて。この男の本性は一体。
「ぼ、僕の臭いが嫌いなんだろ! 宇都木の臭いが! 宇都木の人間の僕が嫌いなんだろ! だったら近付くな、僕だって群青が嫌いだ、無駄に関わってこないでよ!」
「……」
群青は黙って椛の叫びを聞いていた。特に表情を変えることはしない。そんな群青の表情に、心が痛くなる。動揺のあまり、思ってもないことを言ってしまった。また、自分は人に対して酷いことを言ってしまった。たしかに群青のことは好いていないが、ここまで言う必要なんてないのに。こうして酷いことばかり言うから、どんどん人が離れてゆくというのに。
何も言わないまま、群青は椛に背を向けてしまった。一方的に彼に暴言を吐いてしまった。もしかしたら彼は……雨に怯える自分を(なぜ雨が苦手なのを知っているのかは定かではないが)なだめようとしてくれたかもしれないのに。
「……あ、あの……」
「昔よりも仮面が分厚くなってやがる」
「……え、」
何を言っているのか――わからなかった。群青はそのままどこかへ行ってしまった。
何かが見えそうで、見えない。群青のことが少しわかるような気がして――わからない。少なくとも先ほど抱きしめてきた時の群青は……ひどく、優しかった。
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