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***  鳥居を抜けた先は、現世とは全く違う世界。予想とは大きく違っていたその世界に、群青はしばらく立ち尽くしていた。 「……なんだこれ」  その世界は、江戸の街並みと少し似ていた。小さな和風家屋が立ち並んでいて、しかし人の気配は全くない。なにより異様なのが、燃えるように真っ赤な空と、いたるところにこびりついている肉塊のようなもの。漂う腐臭に、鼻がまがりそうになって群青は吐き気すらも覚えていた。あまりにも悍ましい景色。本当にこんなところに椛がいるのだろうか。それならば早く救い出さなければ――そう思うにも、腐臭のせいで椛の匂いを探ることすらもできない。 「お久しぶりやね、群青。達者にしいやおいやしたかい?」 「……!」  ふと、自分を呼ぶ声が聞こえる。その声に、群青は過剰に反応した。甘ったるく、地を這うような声。現れたのは濡鷺。ふらふらとした足取りで、今にも小躍りしだしそうなほどに愉しそうに笑っている。 「濡鷺……! 貴様なんでここに……!」 「何でもなにも、ここは僕ん管轄下におます世界やもん。ようこそおこしやす群青。待っとったよ」 「……待ってた? 俺がここにくるってわかっていたみたいな口ぶりじゃねえか」 「宇都木ん子が来てはるからね。あそこん式神んあんたが来はるとおもてたんやけど」 「やっぱり椛が……どこだ」 「まあまあ、そない慌てへんで」  下駄をからんころんと鳴らしながら、濡鷺が群青に近づいてゆく。警戒しながらじっと睨みつける群青のすぐ側まで歩み寄ると、濡鷺は下から覗きこむようにして尋ねた。 「ところで……紅は元気?」 「……ああ」 「そら良かった。また男たちに可愛がられとるんかいな? 一物咥えることしかでけへんあの可愛い奴隷は」 「……ッ、」  ブチ、と頭のなかで何かがキレるような感覚にまかせて群青が拳を振るうと、濡鷺はそれをひょいと交わしてふらふらと後退する。そして怒りに息を荒げる群青をみて、声をあげて笑い出した。 「相変わらず可愛いな、あんたはんは。僕が一番好きな類ん生きモンどすえ」 「ああ!?」 「犬神ちゅう高貴な妖怪んくせに、他人んために感情を動かす。怒って、嘆いて……まるで人間みたいや。愚かで愛しい人間。そないんやから、永遠に悪夢をみとるんどすえ。そないあんたが僕は好きなんやけどね」 「……わけのわからないことを。椛はどこだ、あいつは返してもらう」 「そやけどね、僕はあんたを待っとったんけど、ちょい来はるんが早すぎなんや」 「おい、濡鷺! 聞いてるのか!」  濡鷺がにやにやと笑う。切れ長の目がちろりと群青をみつめ、舌なめずりでもしそうな勢いで嫌らしく口角をあげた。 「ねえ、群青。ここがどこやかわかるどすやろ」 「……妖怪の世界」 「そない、ほしてええ。言い換えればあの世やね」 「それがどうした」 「……死んや人かて会えるよ」 「――ッ!?」  ――あの世。死霊が向かう場所。つまり亡くなった人とも、会うことができる場所。群青は現世生まれ現世育ちの妖怪であるためここのことは詳しく知らないが、それくらいの知識は持っていた。濡鷺にそれを言われ――ある一つの想いが湧き出てくる。  濡鷺は固まってしまった群青を見て目を細めると、再び群青に近づいた。そして群青の肩にそっと手を乗せて、耳元に唇を寄せ……囁く。 「――あの人かて……会える」 「……あの、人」 「もういっぺんしゃべることも触れることもでける。あの愛おしい月日を取り戻せる」 「で、でもあの人の魂は……」 「――会えるんや」  するりと濡鷺の手のひらが群青のシャツのボタンを外し、なかに入り込む。指先でつうっと胸元をなぞり、濡鷺は淫靡な目つきで群青を見上げた。 「さあ願え。あの人に会おいやしたいと。こん世界はあんたん願いを叶えてくれる」 「俺、は……」  その瞬間――赤かった空が一気に抜けるような青に染まり、肉塊に汚れた建物は美しい屋敷に変化する。そして、一面に桜が咲き乱れた。 「えっ……」 「へえ、椛とおんなじ世界……なるほど」 「……椛、」  突然変化した世界に驚きながらも群青がまず反応したのは、椛の匂いだった。肉塊による腐臭が消えたことで鼻が効くようになったのだ。群青は濡鷺を突き飛ばすと、一気に走りだす。屋敷の奥に、椛が―― 「……」  取り残された濡鷺は、にやにやとしながら群青の背中を見つめていた。嘲るように吹き出しては、愉快そうに嗤う。 「アンタたちにとって一番ん幸せが、おんなじ場所で生み出されたモンやったんやね。やて残念、願いはまるっきしん別モンや。アンタたちん想いによって生まれたこん世界はたとえおんなじ見た目をしいやおいやしたとしても、まるっきしん別モン。アンタたちは会うことなんて――でけへん」  桜の花弁が散る。濡鷺は落ちてきたそれを鬱陶しそうにはらいながら、元来た道をもどる。ちらりと群青の向かっていった方向を見つめると、湿っぽい声で、囁いた。 「精々溺れるがええ。現実を忘れるくらいにな」

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