175 / 353

追憶・桜の花1

――――― ――― ―― ――初めて彼に会ったときは、彼の内側に気付くことはできなかった。  この時代は、人間の世界に妖怪もたくさん住んでいた。ただ、人間と妖怪は相容れなかったのか、争うこともしばしばあった。祓い屋という職業を生業とする人間もいるほどであった。 「ああ……あのクソジジイ……」  桜の木の下で、血塗れで寝そべっている妖怪――群青は、忌々しげに顔を歪める。この辺りで一番美しい妖怪である雪女に惚れられ、山神の爺の嫉妬を買い酷い目にあってしまった。自分は雪女には一切手をだしていないと言っているのに、山神の爺は群青の言い分を聞き入れず、やりたい放題に嬲ったとおもえば文句をいいながらどこかへ行ってしまった。勝手なものだ。あの場では殺されなかったものの、このロクに動けない状態で祓い屋にでも見つかったら滅されてしまう。強烈に痛む体を引きずってこの桜の木の下まできたものの……祓い屋に見つからないという保証はない。 「……おい、そこにいる男」 「……っ!?」  どこからか、声が聞こえる。群青がぎょっとして首だけ起こして辺りを見渡すと――一人の青年が、自分を見下ろしていた。桜の花びらがはらはらと散る中に、痩身の青年はまっすぐに立っている。肌は白く、髪はさらさらとしていて艶やかで、顔立ちが恐ろしいまでに整っている。  しかし群青が彼に初めて抱いた印象は――なんて冷たい目をした男だろう、そういったものだった。 「……おまえ、妖怪だな」  青年はつかつかと群青に歩み寄ってきた。しゃがみ込み、じっと群青の顔を覗きこむ。 「……犬神、だろう。きいたことがあるぞ。金色の髪と、青の瞳。どうした、そんな高貴な妖怪がこんなところに倒れて」 「……山神にやられた」 「へえ……そりゃあ災難だったな」  く、と青年は嗤った。群青は青年のみせる表情のひとつひとつに、苛立ちを覚えた。まるで自分を蔑むような、そんな顔。そして話し方もどこか高飛車で、嫌味ったらしい。群青は人間から敬われるような高貴な妖怪だ。自分の正体を知ったうえでそんな態度をしてくるこの青年が、腹立たしくて仕方なかった。 「おまえ、動けないんだろう。ちょうどいい」 「……?」  青年がにこ、と笑う。なんとも冷たい微笑みだ。彼は何を考えているのだろう――群青が思案をはじめると同時に、青年は立ち上がる。――そしてあろうことか、群青の、山神の爺につけられた傷口を思い切り踏みつけたのだ。 「――ッ!?」 「だいぶ……弱っているみたいだな。今なら強制的にできそうだ」 「な、てめえ、何を……!」 「……契約しろ」 「……?」  踏まれたところから大量の血が溢れてくる。あまりの痛みに意識が飛んでしまいそうだ。しかし抵抗しようにも、山神の爺と争った時にほとんど妖力を失ってしまったためできない。群青が歯を食いしばりながら彼を睨みあげれば……彼は自分の指の腹を噛みきって、目をすうっと細める。 「僕は宇都木 柊。祓い屋をやっている。妖怪――おまえ、僕の式神になれ」 「宇都木――」  宇都木 柊、その名を群青は聞いたことがあった。最近、腕の立つ祓い屋として名を馳せている人間だ。ただ妖怪の間では非常に恐れられていて――祓い方が、とにかく残忍らしい。彼に退治された妖怪はみな、原型をとどめていないほどに体を痛めつけられる。  実際に柊をみて、群青はその噂は本物だ、と確信した。目が、冷たすぎる。まるで鬼の子のようだ。 「……祓うんじゃねえのか、俺はおまえの嫌いな妖怪だぞ」 「……最近、妖怪にだいぶ恨みを持たれていて。護衛が欲しいと思っていた。それから、家事がめんどくさいから雑用も。そう思っていたところにおまえがいた。普通は式神として契約することなんてできないような偉い妖怪が、随分と弱った様子で……見た目もそこらへんの醜い妖怪と違って人間のそれに近い」 「……この俺に雑用をやれってか? ざっけんな、人間風情が」 「口を慎め。おまえは今自分がおかれている立場を理解しろ。……それとも犬にはそんな頭もないのか?」 「んだと、……うッ」  柊が思い切り群青の腹の傷を抉るように蹴りをいれる。声にならない悲鳴をあげる群青を、柊は馬鹿にしたように笑った。群青が殺意にみちた目で睨んでも、全く動じる気配はない。視線を気にすることもなく、群青の着物の裾をひらくと、その左胸に指の血でさらさらと何かの文様をかきいれる。抵抗しようと腕をふるおうとすれば、柊は術のようなもので群青の動きをとめてしまった。普段の群青なら破れるようなその術も、満身創痍の今となってはそうもいかなかった。 「おい、くそ、ふざけんな! なんで俺が人間の式神なんかに!」 「やかましい犬だな……少しは黙っていられないのか。僕は吠える犬は嫌いだ」 「だったら俺を式神なんかにするな! てめえ……隙をついて殺してやるからな……人間なんかに使役されてたまるか!」  柊は群青の言葉も聞き入れず、契約の呪文を唱えてしまった。群青の左胸に刻まれた、血の文様が紅く光る。本当に式神にされてしまった、と表情をこわばらせる群青に、柊は鼻で笑ってみせた。 「……いい道具を手に入れた」 「……この、」  人間のなかでも最低な部類に入るんじゃないか……そんな青年、柊の式神になってしまった群青は、ただ屈辱感に頭を抱えるしかなかった。

ともだちにシェアしよう!