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追憶・桜の花3
***
「今に見てろ……喉笛掻っ切ってやる」
一日中横になっていると、傷も殆ど治ってきた。群青は部屋をそっと抜けだすと、柊の匂いを辿って彼の寝室を探す。式神の契約のせいで命令には逆らえないが、寝ているときに命令を出すことはできない。つまり、柊が寝ているときならばそのまま襲って心臓を潰すことも可能である。もうすっかり夜も深まり、柊が寝ていることは確実だ。柊の寝室を見つけ出すと、群青は意気揚々と襖の取っ手に手をかけた――が、
「うッ……!?」
取っ手に触れた指先に、強烈な痛みが走った。焼けるような、しびれるような。手を離したあともびりびりと痛みは続いている。
(結界か……!? あの野郎、人間のくせに調子にのりやがって……!)
まさか部屋に結界がはってあるとは思わなかった。群青は苛立ちのままに舌打ちして、どうしたものかと考えだす。寝ているときがだめなら他に柊を仕留めることが可能なときは……いや、ない。命令されれば絶対服従。やはりこの結界を強行突破して――
「――何をしている」
「……う、ぉあ!?」
突然、襖がぱしりと開いた。中から顔をのぞかせた柊が、じっとりと群青を睨みつける。
「い、いや……厠と間違って……」
「へえ……おまえは鼻が効くと思っていたが……この部屋から厠の臭いがしたか? 心外だな」
「うっ……」
柊が群青の首を掴んで、そのまま前進し、壁に押し付ける。射抜くような冷たい瞳、ギリギリと首を締め付ける手。命を奪うためにここまできたことが、確実にばれている――まずい、そう思った群青は焦りに血の気が引くのを感じた。
「躾が必要だな……駄犬」
ぱ、と手を離すと、柊は邪悪に笑ってみせた。その表情に群青は戦慄する。恐れたのではない。人間がこんな表情をするのは、初めてみたのだ。こんな、人間らしさの欠如した表情を。
「……跪け」
「……ッ!?」
柊が言葉を発すると、群青の体に何かの力が働き――勝手に動く。がくんと視界がぶれ、気づけば柊の前に跪いていた。唖然と見上げる群青に、柊は腕を組みながら言い放つ。
「おまえ、主人にはちゃんと敬語を使え。式神らしくしろ。僕には様を付けて呼ぶように」
「……は、誰がお前なんかに……うッ」
「犬は敬語の使い方もわからないのか……頭悪いな」
治りかけの傷口を蹴られる。屈辱感と殺意で胸の中はいっぱいになったが、逆らうことができない。抗議の眼差しで睨み上げたところで、この冷徹人間には全くの無効化。口元だけで笑った柊は、す、と足を群青の前に差し出す。
「舐めろ」
「……は?」
「足を舐めろと言っている。這いつくばって、無様にな。契約を通しての命令はしない。おまえの意思で、僕の足を舐めろ」
「……だ、誰が……!」
言いかけたところで、群青を衝撃が襲う。思い切り、頭を踏みつけられたのだ。額を強く床に打って、鈍い痛みがはしる。
……こんな屈辱をうけたのは初めてだ。はやく……はやく、一刻も早くこの男を殺してやる。拳を震わせて、群青は怒りを堪えるのに必死だった。どうすれば柊を殺せるか、それだけで頭のなかはいっぱいだ。
「妖怪なんてな……この世の空気を吸う資格すらない。全て消え失せればいい。こんなことをされて悔しいか、憎らしいか。おまえにそんな感情を持つ権利なんてないんだよ。散々人間を虐げてきたんだからな、妖怪はその報いを受けるべきだ、抵抗もなく、僕たちに嬲られ惨めに死ねばいい」
「……?」
苛立ちのせいで、柊の言葉の意味はよくわからなかった。ただ、どこからその妖怪への異常な嫌悪はくるのだろうと、そう思ったくらいだ。でもこんな男に口答えなんてしても無駄。妖怪である自分の言い分など、絶対に聞き入れてはくれないだろう。
「……はやくしろ。逆らうなら、自分の歯で腕を食いちぎるように命令するぞ」
「……、」
群青は悔しさに、歯を食いしばる。しかし抵抗すれば、本当にそのろくでもない命令をされかねない。群青は観念して、柊の足に手を添え、唇を近づける。そして、静かに足の甲を舐めた。
「……」
舐めろ、といってもどこまでやればいいのかわからない。少し舐めてみても、柊は何も言ってこない。もっとやれということだろう。群青はため息をついて、柊を見上げる。
「……座れ……座って、いただけますか。舐めづらいので」
「おまえが頭を下げればいいだろう。僕に指図するな」
「……ひっくり返りますよ。片足で立っていると」
柊は座る様子はない。しかし、壁により掛かるようにして、自分が倒れない体勢をつくっていた。あくまで自分が見下ろす立場でいたいのだろうか。面白くないが、まあ、そこに一々突っ込めば何をされるかわからない。
群青がそっと柊の片足を持ち、指先に唇を這わせる。そうすると、柊はぎょっとしたように、つま先を強ばらせた。
「……」
……以外に敏感に反応するものだから、群青も面白くなってくる。指と指の間、指の付け根の裏、触られればくすぐったい部分を集中的に責めてやる。
(白い足。……つま先、綺麗だな)
足を舐めるなど、不快感しか覚えないと思っていたのに。少しだけ、どきどきしてくる。自分は変な性癖でも持っているのではないかと群青は焦ったが、たぶんそうではない。足を舐めることに興奮しているのではない。足を舐めたときに、柊が一々ぴくりと反応するのが愉しいのだ。冷酷で、嫌味ったらしい表情しかみせない男が……自分の愛撫にくすぐったそうに反応しているのは、悪い気分にはならない。もっと面白い反応をみせろよ、そのむかつく面を崩してやる――群青はその中指を口に咥え、舌でちろりと撫でてやった――そうすると、柊の足が一層大きくびくんと反応する。
「……あっ……ん、」
「……えっ」
……今の声は。
妙に色が混じっていたような気がした。恐る恐る群青が顔をあげると――柊は、壁をつかむようにして、腰を抜かさないように震えていた。口に手を添え、顔を僅かに紅潮させ――群青と目が合うと、ハッとしたように目を見開く。
「あ、あの……柊……サマ」
「こ、この……舐め方が卑猥なんだよ、この駄犬!」
「痛ッ、ざけんな、蹴るんじゃねえ! 普通に舐めていただけだろう……でしょうが、あんたが勝手に感じているだけでしょう!」
「か、感じっ……」
かっ、と柊が顔を真っ赤にした。図星なのか、そう思って群青が笑おうとすると……また、思い切り蹴られ、体勢を崩される。流石に何度も蹴られては抗議のひとつでもしてやりたいと群青が体を起こしたときには、柊は部屋に入ってぴしゃりと襖をしめてしまっていた。逃げたな、と面白くない心地になって群青は舌打ちをする。
「ふん、実は溜まっているんじゃねえの、やらしい声だしやがって。命令すれば抱いてやってもいいぜ。顔は悪くないからな」
最高の罵倒を吐いてやれば、ドン、と内側から激しく襖を叩く音がした。怒ってる怒ってる、と群青が鬼の首を取ったような心地でいれば、中から怒鳴り声が聞こえた。
「仕方ないだろ! 人にあんまり触れられたことがないんだよ!」
「……は?」
――人に、触れられたことがない。
もう成人くらいの歳の男が? いやいや、ないない。群青は、これ以上柊と話していてもなにもいいことがないと、その場をあっさりと立ち去った。人に触れたことがない、というのは童貞だからということに勝手に変換した。どうでもいい。あんな男のことなんて。顔を赤らめたときのあの表情は悪くはなかったが、いかんせん性格が悪すぎる。早い所柊を殺す方法をみつけて、こんなところはおさらばだ。そう思って群青は自分の部屋まで戻っていった。
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