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追憶・桜の花6
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山の中へ入ってみると、少々道が荒れているような気がした。動物たちもどこか血の気が多いようにざわめいている。
山神といえば、山を護る妖怪だった、と柊は記憶している。神聖な生き物だ、そう言われているのは知っているが、柊にとっては知ったことではない。妖怪ならば滅するだけ。道が荒れているのも、動物たちが殺気立っているのも、山神の影響だとすればいよいよ滅っさなければいけない。
「……おまえさん、宇都木の子ではないかい?」
「……!」
しばらく歩いていると、一人の老人が現れる。山奥に似つかわしくない綺麗な着物を着た老人。たくわえた髭も、真っ白で気品にあふれている。
ひと目で、彼が山神だ、と柊は悟った。
「とても美しい容姿をした青年が祓い屋をやっていると噂できいていてねえ……何をしにここに?」
「……貴方を祓いに。山神様」
「ぶっは、私を山神と知りながら祓うというのかい!? 初めてだよ、そんな祓い屋は」
山神はけらけらと笑い出す。何がそんなにおかしくて笑っているのか理解できず、柊は眉をひそめた。山神は持っている杖で地面をとんと叩いて、柊を見つめる。優しいようでいて、冷たい瞳。ぞっと背筋に寒気が走るのを、柊は感じた。
「山が騒がしくなるからねえ、あまりおまえさんとは争いたくないんだが……今の私は少し気が立っていてねえ……早くここを立ち去れ。さもなくばおまえさんを殺してしまうよ」
「誰が立ち去るか……目の前に妖怪がいながら見逃すなんて真似、僕はしない。視界に入った妖怪は全て殺す」
「やれやれ……おまえさんは祓い屋には向いていないんじゃないかな」
ふう、と山神がため息をついた。その瞬間、木々がざわめきだす。来る、そう気付いた柊は咄嗟に祓いの構えをとった――が、現れたものに目を見開いた。
「あっ……」
周囲から飛び出してきたのは、何匹もの狼だった。山神は山の化身のようなもの。彼が呼びかければ、山の動物たちが動き出す。
――まずい、そう思った。柊が使えるのは、あくまで妖怪を祓うための術だ。妖怪ではない狼を祓うことはできない。ましてや、この狼たちは操られているのではなく、山神の声をきいて自主的に襲ってきているわけだから、その動きを止めることもできない。
「――う、」
とにかく、あの山神を祓わなければ――焦った柊を、狼が襲った。背を鋭い爪で引っかかれ、肩に噛み付かれる。強烈な痛みを感じた瞬間に、視界がぐらりと揺れて、体が倒れこんだ。まずい、このままだと死ぬ――絶体絶命に陥ったそのとき、ひとつ、この状況から脱する手段を思い出す。
――あいつを、
「――群青! 来い!」
――あいつを呼ぶ。
その名を呼んだ瞬間、強烈な光が柊を包んだ。その場にいた者全員が、その眩さに目をとじる。
「あっ!? なんだ突然!?」
倒れた柊に覆いかぶさるようにして、群青が現れた。急に呼ばれ、気づけばここに来て――群青自身、ひどく驚いているようで、状況を把握していなかった。しかし、血塗れの柊と、柊に群がる狼たちをみた群青は、咄嗟に叫ぶ。
「――去れ!」
群青が叫ぶと、狼たちはびくりと体を震わせた。犬神である群青の声を聞き取ったようである。狼達はキャンキャンと鳴きながら、一目散に逃げていってしまった。
「あっ……しまった、このまま見殺しにすればよかった。せっかく自由になれる機会だったのに」
「……この、不吉なことを言って……駄犬」
「はあ? 助けてやってそれはないだろ……でしょう! うっかり助けちゃいましたけど、俺がこなければあんた死んでましたからね!」
「僕に死ねとか言うやつに感謝するつもりはない。おまえは妖怪だ、だまって僕に従っていればいいんだよ」
「ああ? てめえ調子のってんなよ」
助けてやって、この態度。そろそろ群青の怒りも頂点に達しそうになる、そんなとき。言い争う二人にわりはいるようにして、山神が声をかけてくる。
「……おまえ、群青か? 人の女盗った群青」
「……は? あ……クソジジイ!」
山神に気付いた群青は、ぎょっと顔を強ばらせる。一度は一方的に嬲られた相手だ。群青は本能的に山神に恐怖を抱いてしまって、口元をひきつらせる。
「だから……雪女は俺からは一切手をだしてないって言っているだろ……」
「ふん、モテる自慢か? いいなあ、若い男は」
「僻んでんじゃねーよ! 大体なんだよ、こんな人間一人を嬲って。いい趣味してんじゃねーか。女に振られて男色にでも目覚めたかクソジジイ」
「たわけ。その男はこの私を祓おうとした愚か者だ。痛い目にあわせてやろうと思ってな」
「……え」
山神の言葉をきいて、群青は驚いたように言葉を詰まらせる。そして、信じられないという目で、自分の腕のなかでぐったりとしている柊を見下ろした。
「あんた馬鹿ですか。あの爺さんが山神って知らなかったんですか」
「……知ってた」
「はあ? じゃあなんで祓おうなんてしたんです? 俺もあの爺さんは気に喰わないけど……あの人がいなくなったら、この山の加護がなくなるんですよ」
「……知らない。妖怪なら祓う、それだけだ」
「……」
また、この異常な妖怪への嫌悪。これは一体なんなんだ、と思うと同時に、群青はどこか危うさを覚えた。その妖怪がいなくなった後のことも考えないで見境なく祓おうとする――柊がそんなに愚かな人間には見えないから。
「――群青、おまえさん、その愚か者を連れてとっとと去れ。なんでおまえさんがその男に使役されているのかは知らないが……はやく私の目の前から消えなければ、本当に殺すぞ」
ザワ、と強い風が吹く。全身の肌をなでつけるような強烈な悪寒を感じて、群青は弾かれたように顔をあげた。空を覆うような、巨大な妖怪。おどろおどろしい、竜のような形をしたその妖怪は、じろりと群青と柊を見下ろしてくる。
「……うわ、なんだあれ……! くそ、大人しく逃げるぞ、逃してくれるなら素直に……」
自分には勝ち目はない。そう判断した群青は、柊を抱えて立ち上がると逃げようと一歩踏み出した。しかし、その逃走は阻まれる。――柊によって。柊がぐっと群青の服を掴み、止まるように促したのだった。
「な、なんだよ……」
「……あいつを、……あいつを祓わないと、」
「馬鹿言ってんじゃねえよ、あんなの無理だ! いい加減にしろ!」
「殺すんだ……!」
柊は腕につけた数珠を妖怪に向かって振りかざす。群青は慌てて止めようとしたが、無駄だった。数珠から赤黒い光が飛び散り、周囲を包む。おぞましい波動だった。自分に向けられずとも、その波動を感じただけで吐き気を催すくらいに。群青はここまで禍々しい術をみたのは初めてだった。こんなにも細い、ただの人間が使うとは思えないその術に、群青は驚いて固まってしまう。
「……っ」
その術は、空の巨大な妖怪を打ち砕いた。光を浴びた妖怪は、内側からぼこぼこと膨れ上がり、やがて破裂するようにして息絶える。血と肉塊が、雨のように降り注ぎ、群青たちを汚した。
「ちょっ……なんだよ、この術……柊、……!?」
一体どんな顔でこんなにも残忍な術を使っているのか。そう思って柊の表情を伺いみた群青は戦慄した。柊は、嗤っていた。愉しくて仕方ないというふうに、嗤っていた。
「……群青」
ぼそり、と山神が群青を呼ぶ。柊の様子に混乱していた群青は、呆けた顔で山神を顧みる。
「……おまえさんへの恨みで山に入ってきた人間に八つ当たりしていたが……それも吹っ飛んだよ」
「……え?」
「同情するよ、群青」
降り注ぐ血肉のなか、山神は無表情に柊を見つめている。
柊は山神のことも滅してやろうとしたのか群青の腕のなかで暴れたが、大量出血している上に強い術を使ったあと、力尽きたようだ。ふ、と糸が切れたように気を失ってしまう。
「その人間と式神の契約をしているのだろう……その、歪みきった人間と」
「ゆ、がみ……?」
「妖怪への憎悪で壊れた――不完全な人間。そいつと一緒にいていいことはないぞ、群青。はやいところ殺して自由になることだな、おまえはまだ若いんだ」
「……えっと、爺さん? どういうことだ?」
「若造のおまえにはきっと、そいつの抱えているものなんて、見ようと思わなければ見えない。でもそいつと深く関わる必要なんて無いんだ、群青。……まあ、おまえさんの自由だがな」
山神はそろりと歩み寄ってきて、群青の頭をくしゃりと撫でた。何が何だかわからないという風に目を白黒させる群青を、憐れみの目でみつめる。群青は何も言葉を返すことができずに、山神が消えてしまうまで呆然としたままであった。
「……」
腕のなかの柊を見つめる。今、殺せば自分は自由になれる。しかし――群青は、なぜか彼を殺す気にはなれなかった。彼の「内側」が気になってしまったのである。妖怪を全て殺すと執拗にのたまい、自分の殺した妖怪の血肉を浴びて嗤っていた様子は、どうみても異常で、それでいて少し触れれば壊れてしまいそうな危うさがあった。自分に対する冷たい態度もきっと、それと関連している違いない。
「……別に、おまえのこと気にかけてるわけじゃねえから」
細く、軽い……腕に抱いた柊を儚げだと思ってしまったのは何故だろう。きっと……今まで彼から受けてきた屈辱の理由を知りたいだけ、……きっと、それだけ。
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