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追憶・桜の花14
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「柊様、今日は十三夜ですよ~! こっちきて!」
長月の十三日。今宵は満月だ。雲もない夜空には、ぽっかりと大きな月が浮かんでいた。縁側に立った群青は、中に座っている柊を手招きする。
「月なんてわざわざみなくても……」
「なんで! 綺麗ですよ! はやくきてください~!」
「……まったく……」
柊はやれやれと言った風に立ち上がって、縁側にでてくる。めんどくさそうな顔をしている柊をみて群青はおかしそうに笑いながら、縁側のふちに腰掛けた。隣に座るように促せば、柊もそれに従う。
秋の虫の歌声。秋の夜の風。涼しくて静かな夜なのに、隣に座る柊のせいでどこか熱っぽい、そんな十三夜。
「月、綺麗ですね」
群青は、柊の手に自分のものを重ねた。柊がぴく、と身じろぎをする。でも、抵抗はしない。柊の横顔は朱に染まっていて、長い睫毛が震えている。未だ、手を繋ぐだけでもひどく緊張する。触れるだけで鼓動が激しく高鳴る。手を繋いでいるあいだ、彼が一体何を考えているのだろうと思うと、不安や甘酸っぱいふらふらとした感情で胸がいっぱいになって落ち着かない。
「……群青」
ふと、絞りだすような声で柊が群青の名を呼ぶ。どきっ、と群青の心臓が大きく跳ねた。俯いた柊の唇が、かすかに震えている。何を言うんだろう。なぜか怖くて、群青は息が苦しくなってくる。
「……さむい」
「え?」
「……寒い、体が冷える」
「あっ……羽織持ってきましょうか、」
「ち、違う……そうじゃなくて……えっと、……その、」
柊が体を群青に向けた。何かを言いたいけれど言えない、心だけが焦って口が動いてくれない、そんな風に見つめられる。顔を赤らめて、繋いだ手を震わせながら、濡れた瞳で見つめられて――ようやく群青は理解した。
(……もう、どうしよう)
胸が苦しくなる。張り裂けてしまいそう。くらくらして、まともに呼吸もできない。
「……柊様」
そっと、柊の腕を引いた。は、と息を呑む柊の声。目を閉じて、柊は群青に抗うことなく……そのまま、群青の胸に身を寄せる。腕を柊の背にまわせば、彼の細い体はすっぽりと腕の中に収まった。
抱きしめた。弱々しく、大切に、抱きしめた。
……苦しい。息が、胸が、苦しい。何も考えられなくて、苦しい。こんなにも幸せな苦しみがこの世に、存在するなんて。
柊の呼吸、身動ぎ、熱。些細なそれらを敏感に感じ取っては狂ってしまいそうになる。腕に力を込めてしまえば、彼を壊してしまいそう。壊したくない、愛してる。それなのに、もっともっと強く掻き抱いて、強く彼を感じたい。
「……もう、寒く、ないですか……」
「……あついくらい」
「……そう、ですか……よかった……」
「……群青、」
自分の衝動が恐ろしくて震える声で柊に声をかければ、彼が顔をあげる。真っ赤な顔、揺れる瞳。きっと、自分も同じような顔をしている。夜風に頬を撫でられても熱が冷える気配はなく、見つめてくるその視線に熱は煽られる。
「……っ」
想いを、伝えたい。でも、喉のところまで言葉はこみ上げてくるのに、怖くて言い出せない。こんなにも臆病な恋を、初めてした。こんなにも儚い人を、初めて好きになった。愛を知らない人、少しでも愛の加減を間違えれば壊れてしまう人。自分の恋が、愛が、もしかしたらこの人を怖がらせてしまうのではないかと、そう思うと怖くて「好き」ということができない。
きっと、柊も自分に好意を抱いている。それは感じ取ることができる。でも、そうじゃない。お互いが好きだから幸せになれるとは限らない。
きっと柊様にとっての初めての恋を、俺は責任をもって抱きしめてあげなくてはいけない。まだ、まだだ。柊様が愛されることへの恐怖がもっと緩和できた、そのとき……想いを伝えよう。そして、これから俺は、柊様の恐怖をゆっくりと、溶かしてあげる。ゆっくりでいい。静かに、この人を……幸せへ導いてあげたい。
「……僕は、初めて思った」
「……、」
「……おまえとみて、初めてこう思えたんだ」
柊が、靡く群青の金糸の髪を震える指先で撫ぜる。月光にきらきらと透き通る髪。一筋、柊の瞳からこぼれた涙。
「……月が、綺麗だ……って」
柊が、微笑んだ。泣きながら、切なげに笑ってみせた。
もう一度、抱きしめる。視界が歪んだ。そこで初めて、群青は自分も泣いていることに気付いた。
愛おしさで泣くなんて、初めてだった。
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