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追憶・桜の花15(1)

***  今日はちょっとした依頼を受け、あっさりと用事は終わった。群青を連れてくるほどのものでもなかったため、柊は一人で帰路についていた。 「……はあ」  最近は、群青と触れ合うことが多くなってきた。今朝も、抱きしめ合った。朝食を終え、柊が外に出ようと思った時……群青が「行ってらっしゃい」と言うと同時に抱きしめてきたのである。時間にして約数十秒。しかし、言葉も交わさぬまま、じっとただ抱き合うのは、すごく苦しかった。胸が張り裂けそうになって、酸欠になってしまいそうになって、くらくらした。群青の胸に顔を埋めると彼の鼓動が聞こえてきて、掛け算をするように自分の鼓動も高鳴った。  どうしよう。もう、最近は群青のことしか考えられない。一人でいると、頭のなかが彼でいっぱいになって、どきどきしてくる。おかしくなりそうだ。これから家に帰ったら、何が起こるだろう。また抱きしめられるだろうか。もしかしたら……口付けをされたり。 「……ああ、もう、無理……」  恋ってこんなにも胸がきりきりと締め付けられるものだったのか。抱きしめられたい、唇を奪われたい、……色々と彼にされたいと思っているのに、一歩踏み出すことができない。ずっと一人で生きてきたから。憎しみ以外の感情を知らなかったから。愛されることが、どうしても怖い。 『柊、おまえは生涯を妖怪を殺すことに尽くすんだ』 「……あ、」  ぽつ、と何かが頬に触れた。指で触れてみれば、濡れていた。……雨だ。 「……晴れているのに」  空には太陽がみえている。それでもぽつぽつと雫はどんどん落ちてきて、柊は駆け足で近くの大木へ入り込んだ。 (……群青に傘を持ってきてもらおう)  契約を通して群青に迎えにきてもらおう。そう思ったが、上手く術式が頭のなかに浮かばない。さあさあと雨の音が耳に障る。その音は頭のなかに入り込んできて、思考を破壊してゆく。 『母上を殺したのは妖怪だ』 『これは、おまえのためだ』 『おまえだけが妖怪を皆殺しにできるんだ』  雨の音。蘇る――血塗れの母の記憶。 「突然ん雨どしたね。雨宿りをしたはるのどすか?」 「……!」  ぼーっと木の下で雨宿りをしている柊に、誰かが話しかけてきた。顔をあげれば――傘をさした、派手な着物を着た男がこちらをみてにっこりと笑っていた。 「晴れんなか降る雨は、狐の嫁入りとええますね。……やて、あんさんん前に現れたんは狐ほななくて……蛇かもしれへん」  ――妖怪だ。柊はすぐに祓えるように身構える。最近は藪から棒に妖怪を祓うということはしていないが、この妖怪は明らかに怪しい。捕食者のような瞳は、今にも自分を喰らいそうで、寒気がした。 「……蛇の妖怪か」 「んー、半分正解。僕はぎょうさん人ん念を浴びた蛇……長い年月ん末に付喪神にならはった、蛇神や」 「蛇神……? おまえ、濡鷺か。京のほうの大妖怪だろう、なんでこんなところに」 「んんー? ふふ、君に会いに」 「は……?」  蛇神と聞いて、柊は男が濡鷺という大妖怪であることに気付く。妖怪たちが度々彼の名前をあげていたため、聞いたことがあったのだ。  しかし、濡鷺はここから少し離れた京に住まう妖怪だと聞いている。自分に会いにわざわざここまできたなんて、にわかに信じられることではない。訝しげに睨みつける柊の視線など気にすることなく、濡鷺は柊ににじり寄る。 「どないな様子なんやろうって思ってきたやけど……意外に優しい目をしたはるやないか」 「……」 「血ん香りもせんね。妖怪を虐殺しいやまわっとるって聞おいやしたやけど……最近はしいやへんかいな?」  なんだこの妖怪は。まるで心の中を覗かれているかのような気分になって、柊は恐ろしくなった。大木の幹まで追い詰められて、濡鷺の腕と幹の間に閉じ込められる。体が動かない。本能的な恐怖が、逃げるという選択肢を頭の中から消し去ってしまう。 「なんか……心に変化をもたらすことがあったんかな? そない、たとえばやなあ……大事な人がでけたとか」 「……っ」  クッ、と濡鷺が吐くように嗤った。クツクツと肩を震わせながら、濡鷺は面白くて仕方ないという風に嗤っている。 「まるで人間みたいな顔しちゃって。心は鬼ん子んくせに! いっぺん闇に堕ちた人間は、よう、戻ってくることなんてでけへん!」  ずる、と何かの音がする。そして、ひんやりと冷たい感触が手の甲に伝う。何だと思ってそれをみれば――巨大な蛇が這っている。

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