190 / 353
追憶・桜の花15(1)
***
今日はちょっとした依頼を受け、あっさりと用事は終わった。群青を連れてくるほどのものでもなかったため、柊は一人で帰路についていた。
「……はあ」
最近は、群青と触れ合うことが多くなってきた。今朝も、抱きしめ合った。朝食を終え、柊が外に出ようと思った時……群青が「行ってらっしゃい」と言うと同時に抱きしめてきたのである。時間にして約数十秒。しかし、言葉も交わさぬまま、じっとただ抱き合うのは、すごく苦しかった。胸が張り裂けそうになって、酸欠になってしまいそうになって、くらくらした。群青の胸に顔を埋めると彼の鼓動が聞こえてきて、掛け算をするように自分の鼓動も高鳴った。
どうしよう。もう、最近は群青のことしか考えられない。一人でいると、頭のなかが彼でいっぱいになって、どきどきしてくる。おかしくなりそうだ。これから家に帰ったら、何が起こるだろう。また抱きしめられるだろうか。もしかしたら……口付けをされたり。
「……ああ、もう、無理……」
恋ってこんなにも胸がきりきりと締め付けられるものだったのか。抱きしめられたい、唇を奪われたい、……色々と彼にされたいと思っているのに、一歩踏み出すことができない。ずっと一人で生きてきたから。憎しみ以外の感情を知らなかったから。愛されることが、どうしても怖い。
『柊、おまえは生涯を妖怪を殺すことに尽くすんだ』
「……あ、」
ぽつ、と何かが頬に触れた。指で触れてみれば、濡れていた。……雨だ。
「……晴れているのに」
空には太陽がみえている。それでもぽつぽつと雫はどんどん落ちてきて、柊は駆け足で近くの大木へ入り込んだ。
(……群青に傘を持ってきてもらおう)
契約を通して群青に迎えにきてもらおう。そう思ったが、上手く術式が頭のなかに浮かばない。さあさあと雨の音が耳に障る。その音は頭のなかに入り込んできて、思考を破壊してゆく。
『母上を殺したのは妖怪だ』
『これは、おまえのためだ』
『おまえだけが妖怪を皆殺しにできるんだ』
雨の音。蘇る――血塗れの母の記憶。
「突然ん雨どしたね。雨宿りをしたはるのどすか?」
「……!」
ぼーっと木の下で雨宿りをしている柊に、誰かが話しかけてきた。顔をあげれば――傘をさした、派手な着物を着た男がこちらをみてにっこりと笑っていた。
「晴れんなか降る雨は、狐の嫁入りとええますね。……やて、あんさんん前に現れたんは狐ほななくて……蛇かもしれへん」
――妖怪だ。柊はすぐに祓えるように身構える。最近は藪から棒に妖怪を祓うということはしていないが、この妖怪は明らかに怪しい。捕食者のような瞳は、今にも自分を喰らいそうで、寒気がした。
「……蛇の妖怪か」
「んー、半分正解。僕はぎょうさん人ん念を浴びた蛇……長い年月ん末に付喪神にならはった、蛇神や」
「蛇神……? おまえ、濡鷺か。京のほうの大妖怪だろう、なんでこんなところに」
「んんー? ふふ、君に会いに」
「は……?」
蛇神と聞いて、柊は男が濡鷺という大妖怪であることに気付く。妖怪たちが度々彼の名前をあげていたため、聞いたことがあったのだ。
しかし、濡鷺はここから少し離れた京に住まう妖怪だと聞いている。自分に会いにわざわざここまできたなんて、にわかに信じられることではない。訝しげに睨みつける柊の視線など気にすることなく、濡鷺は柊ににじり寄る。
「どないな様子なんやろうって思ってきたやけど……意外に優しい目をしたはるやないか」
「……」
「血ん香りもせんね。妖怪を虐殺しいやまわっとるって聞おいやしたやけど……最近はしいやへんかいな?」
なんだこの妖怪は。まるで心の中を覗かれているかのような気分になって、柊は恐ろしくなった。大木の幹まで追い詰められて、濡鷺の腕と幹の間に閉じ込められる。体が動かない。本能的な恐怖が、逃げるという選択肢を頭の中から消し去ってしまう。
「なんか……心に変化をもたらすことがあったんかな? そない、たとえばやなあ……大事な人がでけたとか」
「……っ」
クッ、と濡鷺が吐くように嗤った。クツクツと肩を震わせながら、濡鷺は面白くて仕方ないという風に嗤っている。
「まるで人間みたいな顔しちゃって。心は鬼ん子んくせに! いっぺん闇に堕ちた人間は、よう、戻ってくることなんてでけへん!」
ずる、と何かの音がする。そして、ひんやりと冷たい感触が手の甲に伝う。何だと思ってそれをみれば――巨大な蛇が這っている。
ともだちにシェアしよう!