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追憶・桜の花16
***
母の死体が発見されたのは、雨の日だった。妖怪を憎むようになったきっかけである母の死、その記憶と雨が結びついている。そのためだろうか。雨の音を聞くと、一人で生きてきたときの想いがふつふつと蘇ってきて、孤独感に苛まれるのだ。
「……群青。僕はやっぱり、だめだ。人間のように生きていくことなんて、できる気がしない。誰かを愛することもできないし、愛されることもできない」
就寝前、お互いの寝室へ別れるとき。柊は、身を裂かれるような想いで群青へ言った。群青をこれ以上傷つけるのが、怖かった。
「……契約、解除しないか。僕のもとを離れて、群青は他の誰かと幸せになってほしい」
奥に奥に、孤独と妖怪への憎しみは染み付いている。ふとした瞬間に、またぶり返すだろう。自分と一緒にいては群青は幸せになれない……そう思った柊は、震える声でそう告げた。
しかし、群青は頷く気配がなかった。そして、動揺もしなかった。ただまっすぐに、柊を見つめている。
「契約を解除するのは勝手ですけど、俺は貴方のもとを離れるつもりはないですよ」
「なんで……! 僕は……僕は、おまえのことを傷つけるかもしれない、おまえがどんなに僕を大切にしてくれても……それに応えられないかもしれないのに……!」
「……じゃあ、一つ質問させてもらってもいいですか」
「え……」
雨の音が外から聞こえてくる。昼間は天気雨だったのに、結局雲が空を覆って本降りとなってしまった。ざあざあと、耳障りな音が止まない。
「どうして貴方は俺を傷つけたくないと思うんですか」
「……! そ、それは……」
群青は責める口調ではなかった。柊の心の奥を悟っているように、優しく問いかけてきた。
「……柊様にとって、俺は傷つけたくないって思うような、そんな存在なんでしょう。側にいて欲しいって……本当は思っているんじゃないですか」
「……お、思ってない……僕は独りでいるほうがいい人間なんだよ……大切な人を傷つけるくらいなら……側にいてほしくない……」
「……柊様」
はあ、と群青がため息をついた。
――そして、ぐっと腕を引かれる。ぎょっとした。触れられることへの恐怖がまた蘇っている、このときにそれをされて、柊は小さな悲鳴をあげてしまった。それでも群青は柊を抱き寄せる。力強く、掻き抱いた。
「――泣きながらそんなこと言われても説得力ねえんだよ!」
「……っ」
自分でも気付かないあいだに、柊は泣いていた。震えるその細い体を、群青は自分の腕に閉じ込めるようにして抱く。
「たしかに貴方は……愛されることを恐れているかもしれない、でも決して、愛されたくないわけじゃない! 諦めんなよ! 幸せになりたいって願いを、捨てんじゃねえ!」
「ぐ、ぐんじょ……」
「俺を傷つけたくないだって? だったら俺を手放すな! 今の俺にとって一番悲しいのは貴方と離れることだ、どんなに貴方が俺を突っぱねようとそばにいる、そばにいたい、俺は貴方の側にいたい……!」
ぎし、と骨が軋むほどに自分を強く抱く腕。一人では感じることのできない熱。ぶつけられる、群青の激しい想い。
ぼろぼろと涙が溢れてくる。こんなにもまっすぐな想いを叫ばれて、柊はもう、嘘をつけなかった。臆病のなかに閉じ込めた、本当の気持ちを、いつの間にか口に出していた。
「いやだ……独りは、嫌だ……! 愛されたい、愛してみたい……普通の幸せを手に入れてみたい……! おまえの側にいたい、おまえに側にいて欲しい……!」
群青の背に腕をまわし、縋り付くようにして抱き返す。触れるのが、触れられるのが怖い、そんな気持ちは今はふっとんでいた。群青の存在を感じていたかった。
声をあげて泣き始めた柊を、群青は大切にきつく抱いた。素直な柊の気持ちに、涙を流しながら微笑んだ。
「います……ずっと、貴方のそばに。俺が貴方を幸せにしてみせる」
「うん……群青、ありがとう……ありがとう、……」
そのまま二人は、しばらく抱き合っていた。雨の音を二人で聞いていた。
夜が更けてゆく。この熱さと離れるのが、少し寂しいと思った。一人で雨の音を聞くのはまだ怖かった。
寝室へ向かおうとしたとき、柊は今までで一番といってもいいほどの勇気を振り絞り、群青の着物の袖を掴む。はっ、とした群青に、柊は震える声で伝えた。かあっと全身が火照り、胸が異常なくらいに高鳴り……だから、声はきっと聞き取るのも難しいくらいに掠れ、震えていただろう。
「……今夜は、一緒の布団で寝てくれないか」
「――」
寝室までの廊下を、会話もなく歩いた。一歩進むたびにきしきしと軋む床、静かな雨の音。仄かな熱が、顔に灯る。
寝室の襖をあけると、部屋の真ん中に一組の布団。それを見た瞬間、どきんと心臓が跳ねた。もしかしたら自分はとんでもないことを言ってしまったんじゃないかと、そう思った。
「柊様」
「あっ……」
名前を呼ばれただけで泣き出しそうになった。口から心臓が飛び出してしまいそう。
別に、体を重ねるわけでもないのに。一緒に寝るというだけなのに。それだけなのに馬鹿みたいにどきどきして、柊は倒れてしまいそうになった。
「ご、ごめん……狭い、かな」
「……いえ、大丈夫です」
布団に入ると、柊は群青に背を向けた。一緒に寝てもらうように頼んだときは、正面から抱きしめてもらいたいと思っていたが……いざ布団に入ると緊張してそんなことはできなかった。背を向けているのにこんなにも心臓がばくばくと騒いで、……向かい合って抱き合ったらどうなってしまうんだろう。
「んっ……!」
「柊様の体……熱い」
「あ、まって……群青……」
突然、群青が抱きしめてきた。後ろから、ぎゅっと。胸のあたりに手を回されて、体を引き寄せられる。背中全体に群青の熱を感じる。
「柊様……心臓、すごい」
「……群青……」
耳元で囁かれ、びく、と腰が震えた。息があがってくる。苦しい。
「柊様……」
「あ……」
群青が、後頭部のあたりに顔をうずめてきた。愛おしい、そんなふうに、唇を押し当ててくる。一気に胸が満たされる。抱きしめられながらそんな風にされて、もうすっかり群青の中に収まってしまって、ひどく幸せな気分になった。
「……群青、」
……すき。
聞こえないくらいの小さな声で、囁いた。
雨の音が聞こえてくる。頭のなかに入り込んでくる。……でも、今は群青と一緒にいる。孤独感は湧いてこない。
……悪くない音だと。そう、思った。
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