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「待って……濡鷺……」  濡鷺の妖術でふらふらになりながらも、椛は濡鷺を突き飛ばして、群青のもとへ駆け寄った。群青の溶かされた皮膚からは血が出てきていて、シャツが赤黒く染まっている。 「群青……逃げてよ、僕はもう、いいから……」 「……ざけんな、よくねえよ……」 「いいんだって……! 元の世界に戻ったって、僕は幸せになんてなれない……誰も、僕のことをみてくれないから……!」 「だからそれは……おまえが周りをみていないからだって言ってんだろ……! おまえの親も、……紅だって、おまえのことをちゃんとみている!」 「……わからない、そんなの……僕にはわからない……」 「……っ」  椛が目を潤ませながらそう言うと、群青が椛の手を掴んだ。そして、がくがくと震える体を起こし……倒れこむようにして椛を抱きしめる。 「……俺も、わからない。俺が、どうすればおまえと向き合えるのかわからない。宇都木への復讐心も、柊様の影を追い求めてしまう心も……まだ、どうしようにもないけど……逃げたらだめだって、それはわかるから……だから、椛、……俺と、これから……一緒に戦って欲しい、自分の弱さと」  ぐ、と椛を抱く群青の腕に力がこもる。椛の体から、宇都木の血の臭いを感じて群青はぎゅっと目を閉じた。ぞわりと心をなでられる。柊が死んだ時の映像が脳裏によぎって、また恨みがぶり返す。それでも、離さなかった。椛を抱く腕を離さなかった。 「……だって、……群青の言っていることは、苦しそう……」 「……ああ」 「ここにいれば、簡単に幸せを手に入れることができるのに……」 「そうだな……」 「……群青は、僕のことを嫌いでしょう」 「……ぶっちゃけ今は嫌い」  自分を包み込む熱に、椛はある記憶を呼び覚ます。雨の夜、怖くて震えていた幼いころ。真っ暗な屋敷のなかで、足がすくんで動けなくなってしまったあのとき。自分を抱きしめてくれた誰かを、とても暖かいと感じた。そのとき、なぜか咄嗟に「群青」と呼びかけていたが、結局その人が誰だかはわからなかった。でも――その記憶と重なる、つい最近の出来事。屋敷を抜けだそうとした雨の夜、群青に抱きしめられた、あの出来事。その熱と、幼いころに抱きしめてくれた誰かの熱は――同じだった。ひどく優しいあの抱擁は……冷たく凍りきってしまった心を、溶かしてくれそうな気がした。 「……一緒に、戦ってなんて言うなら……」 「……うん」 「……僕が、怖くなって、逃げたくなったら……また、こうして抱きしめてくれる? 群青にとって、僕の匂いはきっと……苦しいものだけれど」 「ああ……ちゃんと、おまえが俺のところにこれたらな。……俺に頼ろうとしてくれたなら……俺も、応えてみせる」 「ねえ、お二人サン」  濡鷺が、ゆらりと二人に近づいてゆく。貼り付けたような笑みを浮かべ、ふらふら、ふらふら、派手な着物を揺らし一歩、一歩。 「やめておきなよ。怖いものに正面からぶつかっていくほど馬鹿なことはへん。無様にぐるぐるぐるぐる惑っとるくらいなら、目ん前におます花をつかみとってしまえばええやないか。滑稽にふらついとることほど、くだらないモンはないわ」 「……うるせえ」  椛を抱きしめながら、群青は濡鷺を睨みつけた。全身の痛みに、汗が吹き出てきて意識も飛んでしまいそうになりながら。 「くだらなくなんてない、幸せは、簡単になんて掴めない。足掻いて、苦しんで、惑って……そうやって無様に転げ回んのが、人間だよ、おまえに笑われるものなんかじゃない……!」 「はて、僕にはちょっと理解できないなあ」  濡鷺は、指先を自らの体に這わせてゆく。着物をすっとその指が滑れば、布に更に鮮やかな模様が浮かび上がる。その指が髪を撫ぜれば、きらびやかな髪飾りが現れる。 「生きとる限り、人には無限ん欲望が生まれてくる。花は一匁じゃあ足りない。いくつもいくつも、手に入れれば入れるほど、欲しくなってゆく。そん度に、足掻くつもりかい。そないしんどいことはやめたほうがええ。愚かいな人間、これ以上無様な姿を晒しいやくれへんな」 「簡単に手に入れられないから、手に入れた時に幸せなんだよ。全て手に入れることなんて、できない。……欲しいものが、手にはいらないときもある。失うこともある。俺は……全てを失って、何も見えなくなって……だから、もう一度だけチャンスが欲しい。どんなに苦しい想いをするとわかっていても……その先の、幸せを手に入れたい……」 「……ほんと、群青は妖怪のくせに人間臭いんだよなあ……それでいて、まっすぐ。犬って馬鹿だね。はいはい、了解。興味失せた。殺す。次」  濡鷺はすっかり、きらびやかな格好に変化していた。歩く度に風をうけてきらきらと光る着物が眩しい。欲望を寄せ集めたような、その姿は、まるで浮世の化身だった。 「椛。おまえに聞こうか」 「……、」 「こん世界が消えへんってことは、まだおまえの心に迷いがおますってことせやかて……実際んトコはどないなん? その男の口車にのせられてそないになっとるやけで、ほんまはここに残りたいって思ってへん?」 「……」 「僕は、確実におまえを愛しいやあげる。おまえを幸せにしいやあげる。欲しいモンをなんやてあげる。……そない男と一緒にいても、しんどいやけや。ねえ、椛」  椛は、濡鷺の視線から逃げるように、群青の首元に顔をうずめた。  現実へ戻ることは、怖い。正直、群青の言っていることはまだちゃんと理解できていない。この世界にいたほうが楽に幸せになれる、そう思っている。  でも、自分を力強く抱く群青の言葉は、椛の心をとらえて離さなかった。痛みにがくがくと震える群青の体は、ひどく熱い。辛くて堪らないはずなのに、こうして自分を護ろうとここにいる。群青一人で逃げ出すことも可能なはずなのに――こんな傷を負ってまで、自分を救おうとしてくれている。  ――彼を、信じたい。そう思った。これから、きっと苦しいことがたくさんあるかもしれない。でも、優しくて、強くて弱いこの人と一緒ならば、戦っていける……そんな気がした。群青の大きな体は、震える心を温めてくれる。雨の夜に震えても……彼と一緒ならば、乗り越えられるかもしれない。 「……怖い、です。現実に戻ることは……すごく、怖いです」 「やろ?」 「……でも。……向き合います。正面から……僕自身と。群青がいるから……大丈夫」 「……」  ぱら、と壁が剥がれ落ちるようにたくさんの花びらが降ってくる。世界が、崩れ始めたのだ。濡鷺の瘴気によって黒く染まってしまった部屋が、次々と花びらへと姿を変えて、崩れてゆく。花びらは舞い上がり――あっという間に、三人を囲う世界は変貌する。紅い空、醜い景色。その景色を初めてみた椛は驚いたようにきょろきょろとしていたが、これが本当のあの世の景色だと知っている群青は、ほっとしたような顔で笑った。

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