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「椛。おまえはもう少し愉しませてくれると思ったんだけど」
「……僕は、……帰ります。元の世界に」
「ちょっとちょっと、勝手に帰るとか言われても困るんだけど。言ったよね……殺すって」
ふ、と濡鷺は冷たく嗤った。す、と手をかざすと、そこに花がぽんと出現する。
「この世界にいれば、その価値もない安い魂で、花を一匁もそれ以上も手に入れられるっていうのに……おまえらはつくづく馬鹿だね。いらないんだね、おまえたちは。花を貪る無様な姿を見たかったのに……もう君たちには用がないよ。ここで、死ね」
濡鷺の体から、黒い瘴気が溢れてきた。それは土すらも溶かしていき、辺りは悍ましい空気に包まれる。群青は痛む体に鞭打ってなんとか立ち上がると、椛の手を掴んで走りだす。濡鷺の言ったとおり、自分と濡鷺では格が違う。生きた年月が長いほど強い力をもつことのできる妖怪において、千年の違いは大きすぎる。絶対に敵わない、ここは逃げるしかない。
「群青ー……逃げようとしているところ悪いけど、ひとつ、この世界についていいこと教えてあげようか」
「……?」
「……妖怪は自由に出入りできるけど、人間は僕の許可が無い限り出入りはできないよ?」
「な……」
「出口はそこだけど……逃げたいなら、そのままそこを抜けていけばいい。ただし、椛だけはここに残る。あの、柊が死んだ時みたいに……ひとりの椛を、僕が嬲り殺してあげよう」
「……ッ」
はは、と吐き出すように嗤いながら、濡鷺は迫ってくる。そして、一気に瘴気を二人に向かって放ってきた。目の前に出口はある。でも……ここを抜ければ、椛だけが取り残されて、死んでしまう。どうすれば――考えている間にも、瘴気は目前まできていて。群青は咄嗟に椛を自分の後ろにひっぱり、椛の前にでた。
「――あ、ッ……!」
「……群青……!」
群青が、全身に瘴気を浴びてしまう。全身の皮膚が毒によって溶け出して、服はぼろぼろになりながらも皮膚に張り付いている状態。湧き出る血で、白いはずのシャツは真っ赤に染まる。すでに一度浴びていて、ぎりぎりだった群青は、こんどこそ倒れてしまった。妖怪だから、ぎりぎり命を保っていられるようなものだ。人間だったら、もうすでに死んでいる。
「待っ……群青、群青……」
椛は慌ててしゃがみこんで、群青の顔をのぞきこむ。まだ呼吸をしていると確認してほっとしたが、今にも事切れてしまいそうな彼の様子に涙が溢れてくる。
「もう、……もう、いいです……僕はここに残ります、どうか……群青のことは見逃してください……」
椛はがくがくと震えながら、濡鷺にむかって頭を下げた。濡鷺はわざとらしく困ったように眉をハの字に曲げてみせた。うーんと、唸って、にやにやと笑う。
「えー? そうだなあ、椛が僕の友だちの餌になってくれるなら、群青を見逃してもいいかな」
「……友達?」
「あれ」
濡鷺が、後方を指さした。そうすると――肉塊がこびりついた建物の隙間から、ぞろぞろと何かがでてくる。それを見た椛は、思わず悲鳴をあげてしまった。
現れたのは、大量の、大きな蜘蛛やムカデ、蛇。ぞわぞわと強烈な悪寒が椛のなかを渦巻いて、吐き気すらも覚えてきた。
「一応妖怪なんだけど……あれの餌になってくれるなら、群青を見逃してあげてもいいよ。あいつらに群がられて、すこしずつ体を食われていって……どう? 柊のときよりもちょっと痛いと思うけど」
「……ッ」
「群青を救いたいんでしょ? ほら……椛。それとも、群青のこと見捨てる?」
あまりの恐怖に、椛は泣きだしてしまった。……どうせ、自分はここを出ることができない。ここで頷けば、群青だけは助かるのだ。ぐったりとしてしまった群青はもう、妖術を使うこともできなさそうで――
「……ぐ、群青のこと……助けてください……」
「ん? それは」
「……餌に、なります……」
「……ッ、」
満足気に笑った濡鷺をみて、群青は血の気が引くような心地だった。痛みに震える体をなんとか起こし、椛を抱きしめる。
「ばか……なに言ってんだよ……!」
「群青……はやく、そこの出口からでて……僕は、いいから……」
「……ざけんな!」
ぞろぞろと、蟲たちが這い寄ってくる。かさかさと土を擦る音が気味悪い。
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