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***  今日はめずらしく全く予定のない休日だった。椛は一日のんびりと過ごそうと、本を読んだりしていた。  ふと、トイレにいきたくなって椛は思い出す。昨晩、手を洗っているときに誰かの笑い声が聞こえてきたことを。絶対にあの周りには人がいなかったし、そして幻聴でもなかった。群青はおばけなんかいないと言っていたが、やはり心霊現象だと思うのが自然なところだった。  昼間ならそんなに怖くもないと、椛は恐れを感じながらも一人でトイレにはいる。何事もなく用を足してから、手を洗って……固まった。 「……え」  なにか、聞こえた。ぞく、と寒気を感じながらも、動けない。耳を凝らしていると――くすくすと、笑い声。昨日と同じものだ。水を頭からかけられたように、全身の血の気がひいてゆく。腰が抜けそうになって、急いでトイレを出ようと鏡をみたところで――椛は脚をとめた。 「……誰」  鏡には、人が映っていた。ハッとして後ろを振り向いても、いるはずのところにその人物はいない。間違いなく、この世のものでは、ない。しかし、その人物の顔をみた瞬間、椛のなかで恐れは薄れていった。さらっとした黒い髪、透き通るような白い肌。儚げな雰囲気。 ――確信した。 「……柊さん」  彼はきっと……自分の前世である、柊。彼の記憶の夢をみているときは、常に彼の視点からだったため、椛は柊の顔をしらない。しかし、直感で彼が柊だということがわかった。 「こんにちは、椛。少し、話してみたかったから」  彼が柊だと気付いた瞬間――椛は、嫉妬した。あまりにも、綺麗だったから。自分よりも大人で、色っぽくて、表情に余裕があって。ただ立っているだけなのに、そこだけがきらきらと輝いてみえるくらいに、彼は綺麗だった。 「……話って、なんですか」 「ううん、たいしたことじゃなくて。なんだか椛が、可愛かったから」 「か、可愛いって……」 「必死に群青に恋しているところ。昔の、僕みたい」  ふふ、と柊が笑った。ああ、この笑顔に群青は心を奪われたのかと思うと、胸が掻き毟られるようだった。 「……群青は、柊さんに夢中だったみたいですけど。柊さんは僕みたいに、必死に群青のところ……欲しいって思ったんですか?」 「……君とは少し状況が違うけど。でも、僕も彼に恋をして、苦しんだのは一緒だよ。ずっと、一歩踏み出せない自分と戦っていた」 「でも柊さんは……群青に欲しいって、思われたんでしょう? 僕はがんばって群青にぶつかっていっているのに、かわされる。貴方が、羨ましい」  醜い感情が、胸のなかにぐるぐるぐるぐる。渦巻いて、真っ黒に侵食してゆく。この人は自分を馬鹿にしにきたのだろうか。一向に群青に強く求められない自分を。おまえなんかには渡さないぞって、そう言いに来たのだろうか。 「……嘲笑いにきたんですか。あなたと違って、群青が僕に必死にならないから、」 「まさか。背中を押しに来たんだよ」 「……そんなの、いらないです。貴方をみていると……劣等感に潰されそう」  ぽろ、と椛が心の中を吐露すると、柊がきょとんとした顔をする。やがて、吹き出してしまった彼にかっとなって、椛は鏡を睨みつけた。 「なにが、おかしいんですか……」 「……だって、劣等感って……君と僕は、違う人でしょ。僕と比べてどうするの」 「群青を好きってことは変わらない! あなたのほうが……群青に、愛されている。比べるのは、当たり前じゃないですか!」  ぽろ、と涙が溢れてきた。自分で言って、自分で傷ついた。どんなに自分が群青を好きになったとしても……柊にはかなわないのだと思うと、悲しくて仕方なかった。だって、それははっきりとしていて。群青は自分に、絶対に手を出そうとしてくれない。 「……どっちのほうが愛されているなんて、そんなことはないよ。好きって気持ちは比べるものじゃない。群青は僕のことを愛して……それで、今の彼がいる。今の彼はちゃんと椛をみてくれているでしょ?」 「……だって、群青は、」 「僕へには僕への、君へには君への愛し方がある。群青のあの態度は、君のことをちゃんと見ようとしているからこその態度だよ」  柊が椛に近づいてきた。もちろん、鏡の中だけで。顔がならんで、彼よりも自分は幼くて背が低くて、それが嫌で、椛は唇を噛みしめる。 「……自分を見て欲しいって。椛はそう言っていたのに、一番君を見ていないのは、誰?」 「……え?」 「一番椛を見ることができていないのは……椛、君自身だよ」  は、と椛は目を見開いた。鏡に映る、自分と柊。自分は何を見ているだろう。自分の顔はみないで、柊のことばかりみている。 「僕と比べているから、君は焦って、苦しんでいる。比べる必要なんて、ないよ。群青はちゃんと、君を愛してくれるから」  鏡のなかで、柊がぽんぽんと椛の頭を撫でた。何も、触れているという感覚はない。それなのに、なぜか暖かくて、次々と涙が落ちてゆく。柊の笑顔が、優しい。 「……どうして……柊さんは、こんなことを言いにいたんですか。自分の恋人が他の人を愛するところをみていて、辛くないんですか」 「――群青を愛しているからだ」 「え……」 「もう僕は死んでいる。彼に触れることも、話しかけることも、かなわない。今を生きる彼を幸せにすることが、できない。……だから、君に。群青のことを幸せにしてほしい」 ――なんで。なんで、貴方はそんなことを言えるの。僕はこんなに醜いことを考えて、自分のことしか考えられなくて。それなのに、どうして貴方はそんなに強い。 「……椛、頑張れ」 「……」 「恋は……苦しいけど、楽しい。もがいて、あがいて、必死に好きなひとにぶつかっていって。辛いこともあるだろうけど、その辛さはきっと、君を大人にする」  柊の顔は穏やかだ。群青と恋をして、愛し合って。そんな彼の顔はこんなにも――綺麗。 「……柊さん。貴方は……群青に恋をして、幸せでしたか」  ぱし、と背中を叩かれたような気がした。はっとして振り向けば――そこには、いままでいなかったはずの、柊。彼はまっすぐに椛をみて、にっこりと笑って、 「――もちろん」  と言って……消えてしまった。  椛は一瞬感じた柊の暖かさを追うように、呆然としていた。まるで、夢のなかにいるみたいだ。  よろよろと、トイレをでて部屋へ向かう。ふと顔をあげると、向かいから、紅が歩いてきている。 「……あれ、椛様。今日はお出かけしないんですね。……あ、そうだ、これから私、お菓子をつくろうと思うんですけど、一緒につくりませんか? つくってみるのも、楽しいですよ」 「……紅」  紅ににっこりと微笑みかけられて……椛は、なにかが壊れてしまったように大泣きしてしまった。びっくりした紅が、慌てながらも椛を抱きしめ、頭を撫でる。 「椛様? どうしたんですか、椛様」 「……くれない、……僕は……僕は、……まだ、こどもで、」 「……え?」 「……どうしても、柊さんと自分を比べちゃって、……悔しくて、柊さんから群青を奪いたいなんて思っちゃって、」 「椛様、」 「自分が嫌で、嫌で、……苦しいのに、それなのに、」  柊の言葉は、ちゃんと理解しているつもりだった。彼と比べても仕方がない。彼のことばかりみてしまって、自分を見つめられていない。だから焦って、苦しくて。……でも、すぐにそれを飲み込めるほど、心は簡単じゃない。群青のことが欲しくて、欲しくて、どうしても不安になってしまって。 「――群青のこと、好きで、……大好きで……!」  恋って、こんなにも苦しい。でも好きって気持ちは捨てられない。  苦しみの、その先の幸せが、ただひたすら――眩しい。

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