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「東城寺 文 と申します」
椛のお見合いは、あの話を盗み聞きしてからそう遠くない頃、行われた。東城寺という大きな家の次女である彼女は、今年で17歳になる娘だ。非常に整った顔立ちをしていて、華やかな化粧と服、そして少し強い匂いのお香がさらに彼女の美しさを引き立てていた。しかし、彼女は常時ツンとしていて、正直なところ椛は苦手意識を持ってしまった。
親も同席して話をしたあと、文と椛は二人で会場の外を歩く。男である自分がなにが話さなければ……そう思ったが、彼女がいったいどんな話題を好むのか全くわからない。高尚な印象を受けるからなにか学業のことでも話せばいいだろうか……悶々と悩んでいれば、彼女から漂ってくるお香の匂いが更に思考を妨げる。
「……つまらない」
「え?」
ぼそ、と文がつぶやいた。
あれ、非難された……? と椛は冷や汗を流しながら彼女の表情を窺い見れば、彼女は遠くを眺めて、続ける。
「つまらないと思いませんか。私達の人生って」
「……どういうことです?」
「好きなものを好きと言ってはいけないのです。私たちのような人間は」
文が椛を見つめる。しゃん、と髪飾りがゆれると、彼女はそれを鬱陶しそうに手ではらった。
「あなたも同じことを考えていると思いましたけど……だって、さっきからつまらなそうな顔をしている」
「し、してないです、緊張してしまって」
「そうですか? じゃあ私とは違うのですね。私は、さいっこうにつまらない。何一つ、好きなものがここにはないんですもの」
「……好きなもの?」
「私は、あんな豪華なお食事よりもおむすびが好きなの。こんな重くて肩のこる着物よりもばあやのつくったはんてんが好き。臭いお香よりも金木犀の香りがいいわ。きらびやかな髪飾りよりもシロツメクサの冠が似合う女の子になりたい」
からんころんと音をたてて、文は椛の先を歩く。そして振り返ると、ふ、と微笑んだ。
「自由な、恋をしたい」
「……、」
「悲しくないですか。私達って、つまらない人生を強いられていませんか。決められた道の上で、どうやって幸せを見いだせるというのですか」
ああ、彼女は自分と同じなのか。切なげな文の表情に、椛は悟った。しかし、同意はしなかった。
「……文さん。僕ね、今、恋人がいるんです」
「……! じゃあ、私と同じこと、考えていらっしゃるでしょう?」
「いいえ。僕は……自分の人生を不幸せだとは思いません。その恋人と出逢って……恋が上手くいかないって悩んで、苦しんだこと……それが、未来の僕にとってはきらきらとした宝物になっているって、信じています」
「苦しんだことが、宝物になるの? 変なことを言うのね、椛さんは」
「……人って、そういうものですよ。恋をできるのも、そしてそれがうまくいかないのも、僕達が人だから。ぐちゃぐちゃに悩んで生きれば、その分だけ人生は彩られていく。人として生きる僕らは、苦しめば苦しむほど……成長していくんです」
「……教師のようなことを言うわ、椛さんは。私、そんなにわりきれない。それとも私が子供なのかしら」
「僕の恋人がそんなことを言っていただけです。僕だって、本当は恋を諦めるなんてしたくない。でも、ちょっと苦しい今の恋が、楽しい」
「ふうん」
文は椛の瞳を覗きこむように顔を近づける。ふ、とお香の匂いがした。なるほどたしかに、彼女にはお香の匂いよりも金木犀の匂いのほうが合っているかもしれない。
「私、今、町の小さな飴売りの男性とお付き合いしているの」
「飴売り?」
「彼から頂いた飴を、お母様にみせたら「みすぼらしい」って鼻で笑われたわ。でも、その飴を買っていく子供たちはみんな、眩しいくらいに笑っている。そして、そんな子供たちを見つめる彼の笑顔が、私は大好きなの。飴はね……ただ砂糖を煮詰めたものだし、特別美味しいものではないわ。でも私は、彼のつくった飴が好き。一生懸命に、人のためにつくったものですもの」
「……素敵な方とお付き合いしているんですね」
「貴方は? 貴方の恋人はどんな方?」
「……僕の恋人は……屋敷の使用人です」
「まあ、危ない恋をしているんですね!」
「へへ、まあ。……その人は幼い頃からずっと、僕の側にいました。でもお互いに不器用で、抱えた悩みを一人で背負い込んで。ぐるぐるぐるぐる、苦しんでいた。でも、お互いにお互いを見つめることができるようになってから……求めるようになった。一緒に、成長していっているんです」
「……会ってみたいわ、貴方の恋人」
「……いずれ会えますよ。貴女が僕の妻になるのなら」
「それは楽しみね」
二人で、庭に咲く花を眺めたりした。文は花の知識が豊富なようで、小さな花についても詳しかった。花について話すとき、彼女はとてもやさしい顔をしていた。
「恋って、難しいんですね。でも……しちゃうんですよね。苦しいってわかっていても、好きになったらその人に愛されたくなる」
「すんなり諦められるほど簡単じゃないですからね」
「ねえ……私達、結婚するのは椛さんが大学校を卒業してからになるんでしょう。その頃には、私達はどんな大人になっているかしら。恋に悩んで、苦しんで……素敵な大人になっていると思う?」
「……思います。貴女も、僕も……きっと、成長していると」
「……そう」
にこ、と文が笑う。
「こんな話もきっと、大人になったら青臭かった、って笑うんでしょうね。……貴方と、素敵な夫婦になれることを楽しみにしているわ」
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