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桜の花びらが、はらはらと散っている。早朝の風は冷たくて、でも寒いというようりも爽やかな気分にしてくれる。屋敷の周辺の景色が時代と共に変わっていっても、この場所はいつもほとんんど変わっていない。だから、といってはなんだがここに来ると安心してしまう。こんな場所にきて安心するというのもなんだが。
「今日は、ご報告がありまして。そこにいる、みなさんに」
群青は手に持った酒瓶を、どん、と置いた。群青の見つめる先は、宇都木家の墓。
「あー、柊様からかな。宇都木家で俺と関わった人は。柊様から後の代の方たちは、みんな俺が使用人としてお世話したと思うんですけど。柊様より前の人たちはまあ、俺のことなんて知らないだろうし、適当に聞き流してくださいよ」
群青は身につけたネクタイを直しながら、墓に向かって語る。
「一応、報告するのが義理だと思ったんです。使用人として関わってきたわけだし……あと、柊様と椛、あなた達は俺と恋仲にあったわけですから」
群青はふう、と息を吐く。そして、笑ってみせた。
「――俺、子供ができました」
さあ、と風が吹く。冷たかった空気が、暖かい春風に包まれたような気がした。群青は目を細めて、墓に向かって一礼をすると立ち上がる。
「……そりゃあ、めでたいわあ」
「……!」
そのとき、後ろから誰かがやってきた。からんころんと音を鳴らしてやってきたのは――濡鷺。相変わらずの派手な着物を揺らし、群青と目が合うと優雅に笑ってみせる。
「……よう、お義兄さん」
「あんたはんに言われると気色悪い、お義兄さんはやめれ」
濡鷺は顔をしかめて、立ち止まる。しゃん、と彼の身に付ける髪飾りが音をたてた。ちらりと群青の後ろにたつ墓をみつめて、ため息をつく。
「あんたはんもようやっと、宇都木んもとを離れへんんやね。清々どしたやろう?」
「……そうだなあ、人の世話に一日中動きまわるのは大変だったからな。楽になったといえばそうかもな。……でも、少し寂しいかも」
「寂しい? よおそないなことを言えるね。宇都木ん業ん深さに散々苦しめられたんに、宇都木を恨んほなへんんか?」
「……恨んでいたときもあった。でも、ぐちゃぐちゃとした穢いものは、誰だって持っている。そういったものに苦しめられて、でもだから今の俺がいて。それに、好きだって言えるような人たちもたくさんいた。……楽しかったよ、宇都木の側にいて、俺はいろんなものをみることができたから」
群青が再び歩き出す。散りゆく桜の花びらを、受けながら。
「群青。ひとつ、問おうか。……あんたはん、人間は好きか?」
濡鷺を横切って、そのまま群青は墓地の出口へ向かう。太陽が昇った空は、青く澄んでいて、眩しい。
群青は穏やかに笑って、答える。
「……好きだよ。いつだって無様に足掻いて幸せをつかもうとする人間たちが、俺は好き」
群青が去っていくのを、濡鷺はみることはなかった。そのまま墓へ近づいていって、群青の備えた酒瓶を持ち上げる。
「……人間が好き。僕には理解でけへんな」
そして、供えてあったお猪口に酒をついでやる。
ひとひら、桜の花びら。それが、お猪口のなかの酒におちた。ゆらりと水面に浮かぶ。
「……まあ、人ん人生は僕達よりも短い。我武者羅にに花を追い求めるんも、悪くはないかもね。……精一杯生き抜おいやした人生は、楽しかったかい、あんたはんたち」
濡鷺は墓石に掘られている「宇都木家」の文字をじっと見つめる。桜の木が、さあっと揺れた。濡鷺は微笑むと、酒瓶を置いて、立ち上がる。
「――そう、それならええんや」
人気のなくなった墓地には、静かな春風が、吹き抜けていた。
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