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 現れたのは、メルだった。キャンキャンと吠えるポメラニアンをよしよしと撫でながらあやしている。苦笑いをしてインキュバスと椛のもとに寄ってきて……カッと顔を赤らめた。 「な、な……こんなところで何を……不埒者!」 「め、メル……」 「えっ……あ! 椛! てめえなんてことしてんだよ! そういうことは家でやれ! はしたないぞ!」 「ふざけんな、こいつインキュバス! 襲われてるんだよ!」 「え、インキュバス?」  性的なこととはほぼ無縁のメルは、インキュバスと椛をみて勘違いをしたのか慌てふためいていた。しかし、インキュバスの正体を聞くと落ち着きを取り戻し、じろりとインキュバスを睨みつける。 「……おまえが噂のインキュバス? いつもこんなことしてるの?」 「……赤髪……そうか、おまえもたしかエクソシストの……邪魔をしないでくれる?」 「いや、目の前に悪魔がいてシカトとか無理な相談です」 「ふうん、じゃあ君も……ああどうしよう。君も可愛い顔しているね。殺す前に犯していい?」  インキュバスはゆらりと立ち上がってメルを見定める。メルはコニーをおろしてやると、ロザリオを手にとって、嫌悪丸出しの表情をうかべる。 「いやマジかんべんしてくれよ……おまえみたいな不浄な奴に触られるって考えただけでも吐き気がするわ」 「……抵抗するなら手足もぎ取ってでもブチ犯すけど」 「……やってみろ」  びり、と空気が震えた。お互いの殺意がぶつかった衝撃。 「……!」  急激に雰囲気を変えたインキュバスに、椛は息を呑む。みちみちと音をたてながら変化してゆくその容姿。口が大きく裂けて大きな牙が生え、耳が尖ってゆく。鋭利な刃の如く爪がのびてゆく。美しかったその姿は、化物と形容するのにふさわしい、醜い姿へと変化した。  しかし、メルは動揺のひとつもみせない。手に持ったロザリオに全神経を集中させ、その唇から静かに詠唱を紡いでいる。メルの周囲には赤い魔法陣。詠唱を唱えるにつれてそれは形をなしていき、光を帯びる。 「……詠唱を唱え終えるまで待ってあげるほど、僕は親切じゃないよ」 「――メル……!」  詠唱を唱え終えていないメルに、インキュバスが襲いかかった。  エクソシストの使う対悪魔用の呪文は、最後まで唱えてようやく効果を発揮する。高位な呪文ほど長く、また術者の精神が安定していなければ成功しない。詠唱の途中で襲われれば、普通の人間ならば動揺して失敗する。だから、なるべく短い簡単な呪文に逃げるのが一般的なエクソシストの戦闘なのだが……メルの呪文は最高位の呪文だった。 「メル、逃げて……!」  インキュバスの攻撃が容赦なくメルに襲いかかる。牙は肩に食い込み、爪は腹を貫き溢れ出る血が、地面に染みをつくっていく。  しかし、それでもメルの詠唱は止むことはなかった。痛みに冷や汗を流す程度で顔色ひとつ変えること無く、詠唱は続けられる。その瞳は冷静にロザリオをみつめ、焦りは一切ない。傷が広げられていっても、口から血を吐いても……詠唱の速度を変えることなく、メルは淡々と唱え続けた。  ――そして、詠唱を唱え終える。 「うわ……」  あまりのまばゆさに、椛は腕で目を覆う。魔法陣から強烈な光が放たれて、インキュバスは煙を上げながら消えていってしまった。  しばらくすると、光がひいてゆく。視覚が回復した椛は、慌ててメルに駆け寄った。インキュバスが消えると同時にどさりと座り込んだメルは血まみれで、とてもじゃないが無事とは思えない。 「メル……メル、大丈夫!? しっかり……死なないで……!」 「……はあ、」  メルは椛の声をきくと、大きく息を吐いた。そして、じろりと椛をみつめると、顔をしかめて鬱陶しそうに言う。 「……うるせえ、頭に響く」 「ご、ごめん……でも……」  恐る恐る椛が触れようとすれば、メルはその手を払ってしまった。そして、傍らでぷるぷると震えているコニーを抱き上げて、ぎゅっと抱きしめる。 「あー……ごめんなコニー。怖がらせちまったな」  メルがよしよしと撫でれば、コニーはメルの口元についた血を舐め始めた。くすぐったそうにメルは笑って、何事もなかったように立ち上がる。 「ちょ、ちょっと……傷がひらいちゃう……」 「……んー、ああ、いいんだよ、大丈夫だから」 「でも……」  メルはそのまま椛に背をむけて、きた道を戻り始めた。……普通の速度で歩いている。まるで痛くもなんともない、という風に。腹を刺された瞬間に口から溢れでていた血も、止まっている。どういうことだ――椛が唖然と目を見張っていると、メルはぴたりと立ち止まり、振り返る。 「……傷の心配ならしなくていいぜ。ほら」 「……な、」  メルは自分のシャツをめくり上げて、椛に腹をみせた。――そこには、傷ひとつ、なかった。 「ど、どういうこと……」  椛の問には答えることなく、メルは再び歩き出す。二度と顧みることはなかった。何がおこったのかわからず……椛はしばらくその場に座り込んでいた。

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