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人間たちから逃げ出したノアは、ふらふらになりながら城へたどり着いた。重い門をあけ、自分の寝室を目指す。……なんとなく予感がしていたのだ。そこにおそらく、ベリアルとメルがいる、と。
「……ッ、な、んだこれ……」
急いでメルのもとへ向かおうとしたノアだったが――城内の有り様をみて、固まってしまう。床が、血まみれだ。血を流すものが引きずられたのだろう、血の跡は線を描き、どこかへ続いている。恐る恐る血をたどっていけば――やはり、寝室へたどり着いてしまった。
ドクンドクンと心臓が高鳴り、気持ち悪い。ノアが意を決して扉を開けば――そこに、いた。
「おかえりなさいませ、伯爵」
ベッドの上に、ベリアルに抱きかかえられたメルが。そして、ベッドの傍らには人間の死体が転がっており、その死体からもぎ取られたと思われる首をベリアルが持っている。ベリアルはその首をメルの口元に近づけていて、メルはガクガクと震えながらそれを拒んでいる。
「……ベリアル」
ノアが声を荒らげて、彼の名を呼ぶ。ベリアルはそんなノアをみつめ、にいっと微笑んだ。
「おまえ……メルに何をした! メルが元々人狼なわけないだろ! そんなに人肉を食うことを拒んでいるのに!」
「私が何かしたと思っているのですか? まさか……私はただのちに起こりうる悲劇を少し早めてやっただけです」
「何をわけのわからないこと……」
「私がメル様の魔性を刺激せずとも、伯爵が少しずつ刺激していましたからね。私が放っておいてもメル様は人狼に戻られた。メル様が苦しそうだったので、ちょっと助けてあげただけですよ、私は」
「俺が……魔性を刺激する?」
「……まだおわかりにならない!」
あははっ、とベリアルは愉しそうな笑い声をあげた。ごろんと首を投げ出すと、ベッドから飛び降りてノアのもとに歩み寄る。返り血を浴びた不気味なベリアルがすうっと近付いてくるものだから、思わずノアは後退してしまう。
「メル様が人狼に戻ってしまったのは、貴方のせいですよ……伯爵」
「え……?」
「メル様は元々人狼だったのです。それをエクソシストである義父の秘術によって、人間に擬態していた。しかしその秘術は、魔族と触れ合うほどに綻んでしまう……メル様は貴方と恋人となったことにより、人間としての人生を謳歌できなくなってしまったのです」
「……は、」
嘘だろ、とノアはよろめいた。ベリアルがこちらの心を揺さぶるために嘘をついているのか――と思ったが、それはありえない。悪魔は、嘘をつかない。
「貴方はとてもとても哀しい人だ。人を愛することを赦されず、そしてようやくみつけた愛しても死なない人は親の仇の子であり人喰い。更にその子の人生を狂わせたのが自分であると、後から知ることになり……嗚呼、嘆かわしいですね美しいですね! 伯爵、貴方は素敵な方だ!」
固まるノアに、ベリアルが口付けをする。あまりの絶望に抵抗できず、ノアはつう、と涙を流しながら大人しくそのキスを受け入れた。ベリアルはゆっくりと唇を離すと、するりとノアの頬を撫でて囁く。
「さあ伯爵……さらなる悲劇を私めに。メル様はまだ完全に人狼に戻ってはいません。彼を……貴方の判断で、「救って」あげるのです」
「……」
「ふふ……大丈夫、本当に苦しいときは私が慰めてさしあげますよ。いつものように……孤独で淋しい貴方に寄り添ったように」
悪魔の微笑みが、ノアの眼前に広がる。ベリアルは呆然とするノアにもう一度キスをすると――部屋を出て行ってしまった。
部屋の中には、メルの嗚咽が響き渡る。ノアはゆっくりと、ベッドに近づいていった。一歩踏み出す度に、床に広がる血に波紋を生む。
「メル……? 聞こえる? 俺の声」
恐る恐る、ノアは呼びかけてみた。血まみれのスーツにうずくまるメルがぴくりと身動ぐ。ゆらり、とノアを見上げたその顔は、目元に隈がたまり口元には大量の血がこびりつき、酷いものだった。紅い瞳が涙できらきらと輝いている……この人間離れした紅い瞳と髪の毛が、魔族であった証拠だと――今更のようにノアは気づく。
「の、あ……」
メルがノアに助けを請うように手を伸ばした。ノアは迷わずその手をとって、メルを抱きしめる。
親の仇の子、人喰い――様々なしがらみがあったはず。しかし、メルを目の前にしたノアから、そんなものは一瞬で吹っ飛んでしまった。メルが愛おして仕方ない。でも……彼をこのまま愛することができるのか。彼に寄り添うということは、これから人殺しに加担することとなってしまう。
「……ッ」
――どうすればいい。どうすればメルを救える……?
「のあ……おねがい……おねがい、だから……」
「……メル?」
メルの手に、ぎり、と力が込められる。息が荒いのは、きっと理性と本能の狭間で藻掻き苦しんでいるからだろう。あんまりにも辛そうなメルの様子にノアは胸が苦しくなって、メルを優しく抱き寄せる。しかし、メルの口から溢れてきた言葉は信じられないもの。耳を研ぎ澄ませなければ聞こえないくらいのかすれ声で紡がれたその言葉は、ノアの心を貫いた。
「……ころして、……お願い、ノア……おれを、ころ、して……」
――頭が、真っ白になった。ぎりぎりに保ってられる理性のなか、メルが絞り出した言葉がそれだと思うと……あまりにも、悲しかった。人狼となり、人を殺すくらいなら死にたいと……メルはそう願っているのだろう。でも、そんな……そんな惨い願いなど、ノアが聞き入れられるはずもなく。
「メル……死にたいなんて願わないで……まだきっと、なにか方法が……」
「……の、あ」
メルを諭そうとノアが優しく彼の頭を撫でてやったとき。ぐらいとノアの視界が揺れる。
「メル……?」
ノアはメルに押し倒されていた。びしゃ、と血で濡れたシーツから水音が響く。自分を見下ろすメルの表情をみて……ノアは息を飲む。正気を失ったような表情を浮かべる、紅い瞳の彼。それは魔族そのものの顔だった。
「……ッ」
メルが口付けてくる。いつものキスとは違う、乱暴なそれに……なんとなく、ノアは感ずいた。このキスは、自分への愛からくるものではないと。人狼のもつ捕食衝動からきているものだ、と。椛を襲ったときときっと同じだ。人狼になりかけたメルがエンジェリックジーンを所有する椛を襲ってしまったときと同じ。人の血をもつノアを目の前にして――メルは空腹を覚えてしまったのだ。
「……っ、」
食べられるかもしれない。しかし、ノアは抵抗しなかった。ほんの少し、考えてしまったのだ。このままメルとセックスをすれば、メルはさらに人狼に近づいてゆく。そうすれば……メルの理性は失われ、メルが苦しむことがなくなる。死にたいと願いながら生きるよりも、彼にとっては楽だろう、と。もちろんそれが彼の望むことではないと、それくらいわかっている。でもどうしても彼に生きていて欲しい、彼の苦しむ顔をみたくない……これは、ノアのエゴに近い願いだった。自分の愚かさに辟易しながらも……ノアは自分に襲いかかってくるメルを跳ね除けることなく、そのまま抱きしめてやった。
「……あっ、」
強烈な痛みが首筋に走る。メルが噛み付いたらしい。ノアは必死に痛みに耐えて、メルを抱く腕に力を込める。
噛まれたところが、焼けつくようだ。ビリビリと痺れのようなものがはしって、熱いのか冷たいのかわからない、そんな感覚がそこから溢れでて……皮膚がちぎられてゆく嫌な感覚を覚える。くちゅくちゅとメルが肉を咀嚼する音が聞こえてきたから……首元の肉をいくらか食いちぎられたのだろう。急所ははずれているらしいが、出血量は尋常ではない。生暖かい血がどろりと首から溢れでて、じわじわとシーツに染みこんでゆく。
「……はっ、あ……」
痛い。全身の血の気が引いてゆくのがわかる。メルの背に爪を立てていたノアの手から、力が抜けてゆく全身の毛穴から脂汗がでてきて、服が濡れて気持ち悪い。意識がぼんやりとしてきて、視界がぐるぐると回り始める。
「……の、あ……」
「メル……」
身体を起こしたメルが、ぐったりとしたノアを見下ろす。顔は血まみれで……そして、瞳から涙を流している。よろよろとノアの手をとって、ほんの少しの力で握ってきた。
「……さわって、ほしいの? メル」
ノアは意識が飛んでしまいそうなのに耐えて、身体を起こす。そっとメルの頬を撫でて優しく口付けをすると、微笑んだ。
メルの服を脱がしてやり、自らも脱ぐ。お互いに一糸纏わずの状態になると、ノアはメルと向い合って、言う。
「……我慢しなくていいからね」
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