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ステンドグラスを月明かりが突き抜けて、礼拝堂を照らしている。ぼんやりと闇の中に浮かぶ聖母の像の前に跪いているのは、トレーシー。自分の心に空いた隙間を埋めたいがためにメルを人として育てた罪は、いくら懺悔しても赦されないと――トレーシーはずっと、こうしているのだった。
「私が悲劇を招いたのです、どうか私に罰を――」
かたん、と何かの音が響いた。トレーシーがゆっくりと振り向けば、礼拝堂の扉が開かれようとしている。徐々に扉は開いていって、隙間から月光入り込んで――現れたのは、酷く美しい人。紅い髪を夜風に靡かせ、血の海に沈めるようにその真紅の瞳にトレーシーを写している――最愛の息子、メルだ。
「メル……」
メルはゆらりゆらりとトレーシーに近づいてゆく。その様子が、いつものメルと違うということなど、トレーシーはすぐにわかった。人狼へと回帰した彼。空腹の獣のような目をしているメルに、トレーシーは優しく微笑みかける。
「……お腹がへったのかい、メル」
背面にそびえるステンドグラスから差す月光が、メルを照らす。暗い礼拝堂で美しく佇む彼を、まるで天使のようだとトレーシーは思った。自分に罰を与えにきたのだろうと、そう思った。
だから、メルが近づいてきても、怖くなった。息のかかる距離で見つめられても、逃げなかった。トレーシーはメルを抱きしめて、愛しい息子へ囁きかける。
「メル、ごめんね、私はどうしても、おまえを人として育てたかった。酷く勝手なことをしたね、それはわかっている……でも私は、おまえと一緒に過ごせて、幸せだったよ」
――首筋に、その牙が食い込んだ。
トレーシーは悲鳴もあげず、静かに目を閉じてその痛みを受け入れた。地獄の業火で焼かれるようなその痛みを罪だと思えば、怖くなかった。このまま死ぬだとしても、メルの手で殺されるのなら構わないと思った。
床に血が広がってゆく。ステンドグラスの色が混じった月明かりがその血を照らし、きらきらと輝いている。
「Happy birthday to you~Happy birthday to you~」
どこからか、歌が聞こえる。いつの間にか聖母の像の上に座っていたベリアルが、父親を食らうメルを見下ろして歌っているのだった。
「Happy birthday, dear Tracy~birthday to you~♪」
無意識に涙をぼろぼろと流しながらメルは父の肉を咀嚼する。もはや理性も人間性もなくしている――そのなかで、限界のなかで、メルは泣いていた。
とめて。だれかとめて。ころして。おねがいだから、おれをころして。
「お誕生日おめでとう、トレーシー神父。最高の誕生日プレゼントになりましたね」
ズシリとトレーシーの身体が自分にのしかかってくる。メルは死の臭いを、感じ取った。
「――トレーシー神父……!」
そのとき、空を裂くような声が響く。礼拝堂の出入口に、武器を持った町人たちが立っていた。彼らは血まみれのトレーシーとメルをみて、血相を変えた。メルが親を食ったのだと、信じられないような顔をしている。
「……この、人狼め!」
トレーシーがどれほどメルを愛していたのかを知っていた町人たちは、怒り狂って武器をメルに向けた。町人のなかに紛れていた椛が慌てて止めに入ろうとしたが――遅い。町人たちが構えた猟銃から、弾丸が放たれる。メルは無意識に庇うようにして、トレーシーに覆いかぶさった。弾丸の雨が背中に降り注ぎ、肉体が壊れてゆく。ひとしきり撃ったあと、町人たちが動きを止めれば、メルはぐったりとして横たわっていた。
「……メルッ……!」
椛は泣きながら、叫ぶ。そうすると、メルがゆらりと振り返った。再び町人が銃を構えた、そのとき。メルの唇が動く。椛が注意深くその動きをみて……彼の意思を、感じ取る。
『ころして』
メルはそう言っていた。
「……ッ」
メルのなかの、最後の一欠片の人間の心の、叫びだった。すぐにメルは獣のような瞳になって、立ち上がる。驚異的な治癒能力により、銃創があっさりと治ってしまったのだ。武器を向けた町人たちから逃げるように、礼拝堂の側面についた窓を突き破って逃走してしまう。体内に銃弾が残っているためか、メルの動きは鈍い。追いかければすぐに追い付くことができそうだった。
「――追うぞ!」
「……待って」
メルを追おうとする町人を、椛が引き止める。このまま銃で撃ったところで、メルが死ぬとは思えない。ただ痛みをひたすらに受けて、苦しむだけだ。メルの「殺して」という言葉を受け取った椛は、どうにかして彼を楽に死なせてやらねばと、そう思った。
「……貴方、ベリアルといいましたね。人間では、ないですよね」
聖母の像に座るベリアルに――椛は問う。ベリアルはにっこりと笑って、「悪魔ですよ」と正直に答えた。
「……メルを、死なせることの出来る方法は知りませんか」
「……ノア様に頼めばいい。彼は強い魔力を持っています。彼の力があれば、メル様を殺すことができますよ」
「でも、ノアはメルを殺そうとはしません」
「……ノア様に貴方の血を吸わせるのです」
「僕の血?」
「ノア様は血を吸った相手に恋心を抱く、そんな体質を持っている。誰かの血を吸って、メル様への恋心を忘れれば……ノア様もメル様を殺すことができるでしょう」
「……ッ」
――ひどい。直感的に椛はそう思った。メルを好きという心を強制的に忘れさせるなんて……あまりにも哀しいと、そう思った。
――そのとき。
「――メル!」
大きな声で叫びながら、礼拝堂にノアが入って来た。
町人たちが一斉にノアの方を見る。殺気だった彼らの視線に、ノアは怖気づき、固まった。
「ノア……丁度いいところに」
「えっ……?」
ノアは状況を判断しようと礼拝堂のなかを見渡す。血まみれで倒れているトレーシー、武器を持った町人たち、割れた窓ガラス、そしてそんな様子を傍観しているベリアル。つい先程までメルが来ていたのだろうか……一足遅かった、とノアが舌打ちをうったとき。
「ノア……赤ずきんの血を吸ってもらえるか?」
町人の一人が、ノアにそう言った。ノアは一瞬彼が何を言っているのかわからなくて目を瞠ったが……ここにはベリアルがいる。おそらく彼が町人たちに「ノアにメルを殺させるためにはノアに誰かの血を飲ませろ」と言ったのだ、と理解した。
椛はノアのことを思うと気が進まないのか、表情は優れないが……そうするしか手がないのだと、町人たちの前にでる。
「……悪いけど彼の血を吸う気はない」
「……ノア、すみません。メルのためです」
椛が赤いコートを脱いだ。その瞬間、ノアは強烈な枯渇感を覚える。エンジェリックジーンの気配を遮断する赤いコートを椛が脱いだことで、ノアの本能がその気配を察知し、求めてしまったのだ。
たじろいだノアをみて、椛はぐっと唇を噛む。本当に、彼には申し訳ない。でもメルの願いを叶えるにはこの方法しか、ない。更にノアを煽るために、椛は腕を軽くナイフで切って、血を流す。
「……ノア」
「ま、待て……近づくな」
町人たちが一斉にノアに掴みかかる。咄嗟のことだったため、ノアも反応できずあっさり捕まってしまった。振り払おうとすればおそらく簡単に逃げられるが、加減を間違えれば町人たちを傷つける。ノアは抵抗もできず、そのまま、町人たちに椛の前でひざまずかされてしまった。
「……メルの、願いなんです。ノア……メルを、殺してあげてください」
「……殺さない、俺はメルを殺さない!」
「人喰いになってまで生きていたいとメルが思っているとでも!?」
「うるさい、俺はメルを殺したくない……!」
この場におけるエゴイストは、完全にノアだった。しかし、椛もノアの気持ちを理解できないわけじゃない。メルを殺すことには、たとえ彼の願いであろうと、心が痛む。……でも。そんな葛藤を心のなかで踏み潰し、椛はノアの前に座り、首をさらけ出した。
「……ノア、もう、貴方しかみんなを救えない」
「……いやだ、って……! 俺は、メルを……」
ノアの心拍数があがってゆく。目の前に最たる好物である、エンジェリックジーンを所有する人間の血がある。身体が、それを渇望している。
数人の町人に頭を捕まれ、椛の首に口を近づけられた。いやだ、とノアは首をふり微かに抵抗したが……
「――ッ」
ノアの牙は、椛の首に食い込む。エンジェリックジーンの強烈な誘惑には、ノアも敵わなかった。
椛が血を吸われる感覚に不快を覚えた頃、唇は離される。ノアは椛から離れると、ぐったりとうなだれしばらく動かなかった。誰もが固唾を呑んで彼を見守るなか……彼の瞳から、ぽたりと涙がこぼれ落ちる。
「……ノア?」
「……椛、」
ノアは軽く椛の手を引いて、その胸に頬ずりをした。そして、軽く椛に口付ける。
――成功した。ノアの恋心は、メルから椛に、確かにうつったようだった。町人たちがほっと一息つくなか、椛はノアの表情をみて、喜ぶことはできなかった。
まるで、何かをなくした子供のように。ノアは泣いていた。何をなくしたのかもわかっていない、ただ、喪失感だけが彼の胸を貫いている。新たに得た椛への恋心では補えないくらいに、その哀しみはノアにとってつらいもののようで。
「――ノア、メルを殺すのを手伝ってくれ」
「……メル?」
町人の一人がノアに頼めば、ノアはまた、ぼろぼろと泣いた。メルへの恋心は消えているのに、なぜかメルのことを考えると苦しかったのだ。椛がそんなノアを抱きしめて、「ごめんね、」と頼むと……ノアは虚ろな瞳をしながら、言う。
「……わかった、」
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