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「ノア、あの……大丈夫ですか?」
メルを追いかけている最中、ノアはぼんやりとしていて危なっかしい様子だった。
――考えてみれば当たり前のことだ。ノアはメルへの恋心が消えたわけであってメルと過ごした時間の記憶が消えたわけではない。たしかに愛し合っていたはずなのに恋心を無理に抜き取られたのだから、心が混乱を起こしている。自分がメルへ抱いていた感情は一体何なのか、それがあやふやになっているのだ。
「メルを、殺すんだよね」
「……はい」
「……椛が望んでいるんだもんね」
「……はい」
椛はメルのことが好きだった。だから、メルの願いである彼の殺害を、ノアに頼んだ。それが、一番の正解だと思ったから。事実を知って苦しむのは自分だけですむ、最良の方法に思えたから。
「――あ」
前方に、メルがふらふらと歩いている。足取りは重く、やはり銃弾が体内にあるのが辛いのだろうか。治癒能力を活かして銃弾を抜き取るという知恵も働かないほど、メルの思考能力は低下しているということだ。
「メルを、殺す、」
ノアが椛の前にでる。一歩、一歩、重石でも背負っているかのようにゆっくりとメルに近づいてゆく。息も詰まるほどの緊張感。本当にノアはメルを殺せるのだろうか――椛と町人たちは息を呑んでノアの行動を見守っている。
「――メル」
ノアの右手に、魔力でつくられた剣が生まれ出る。名前を呼ばれ振り向いたメルは、その剣を見てびくりと震えた。自分を殺すためにノアがそれを持っているということは、理解できたようだ。
二人の目が合って、少しずつ距離が詰められてゆく。少しずつ後ずさってゆくメルを追いかけるように、ノアは次第に速度をあげてゆく。追って、追って、その距離はなくなっていき――ノアは剣の切っ先をメルの首に突きつけた。
「……ッ」
チリ、とノアの中に記憶の残像が浮かぶ。メルと過ごした日々が走馬灯のように次々と頭の中に。
初めて出逢ったときのツンケンとした態度、初めて笑ってくれたときの表情、初めて心がつながったときの愛おしさ。抜け落ちた恋心を埋めてゆくように、メルと過ごした日々の記憶が滔々と溢れ出てきた。メルへの恋心はたしかに今は消えてしまった。しかし、記憶の中のメルが自分へいっぱいいっぱいの笑顔をみせてくれて、抱いたときは幸せそうに甘い声をあげ縋り付いてきて。メルと自分は、確かに恋をしていたと、思い知った。メルが「好き」と言ってくれたとき、自分はなんて返していただろう。「好き」と、「愛している」と、そう返していなかったか。そのとき自分の胸に溢れていた想いは、いったいなんだったか。
「……メル、」
今のノアが、メルに恋をすることができない。呪いにも似た体質のせいで、強制的に椛に恋心が移っている。それでも、なぜか剣を振るえなかった。過去の自分が腕を押さえつけているようだった。
二人の視線が絡み合う。メルも、なぜかその場から動こうとはしなかった。隙だらけのノアから逃げることも、返り討ちにすることも可能であるはずなのに、動かなかった。メルの赤い瞳はゆらゆらとゆれ、まるで人間の瞳のように哀しそうに歪む。
「……の、あ……」
魂の、奥の奥に染み付いたノアへの恋情。たくさんもらった、ノアからの愛。それは人狼となったメルを動かす。ノアへの恋心などわからなくなってしまっているはずなのに、メルはノアに触れたいと――そう思った。首につきつけられた剣を軽く払うと、ゆっくり、ノアに近づいてゆく。
「……メル、」
「……のあ」
そして、メルはノアに抱きついた。弱々しく、自分自身に戸惑いながらノアに抱きついたのだ。
ノアは剣を落とす。そして、ふら、とふらつきながら、メルを抱きしめ返した。胸の内からこみ上げてくる愛おしさの正体がわからない。懐かしくて、それでももやもやと霧がかかったように不鮮明で。ノスタルジーにも似た切なさに、胸を引き裂かれそうになった。
「……ッ」
メルの瞳から涙がこぼれ落ちる。縋り付いたノアの首元からは、いい匂い。おいしそうな匂い。正体のわからない愛おしさを彼に抱いているというのに、自分のなかを満たすのは、食欲ばかり。触れたノアのぬくもりから染みだした幸福感を、食欲が塗りつぶしてゆく。
メルの手が、ずる、とノアの背を這う。メルの唇が、ノアの首に押し当てられる。そして――牙が、皮膚に……
「――ッ、ノア! メルを殺して!」
メルがノアを食らってしまう。それに気付いた椛が叫んだ。
メルは望んだのだ。これ以上、人を殺したくないから死にたいと。そんな彼に、最も愛した人を自らの手で殺させるわけにはいかない。大好きなメルを「殺せ」ということに、椛の心は酷く傷んだ。それでも、メルの望みをきいてあげたかった。そんな想いの叫びは――ノアに届く。
ノアの足元から剣が消え、そして再びノアの手元に現れる。
「……メル」
「……のあ、」
「……さよなら、みたい」
ノアの剣が、メルの首筋に当てられた。メルはそれに気付いて、ぴくりと震えたが……抵抗をしなかった。そのままノアに抱きついて、そして――ふと顔をあげて椛を見つめる。
「――ありがと」
メルが笑ったような気がした。
……椛は、言葉を失ってしまう。本当に……本当に、メルは死ぬの? そんな風に笑って――
――ノアの剣が、メルの首を突き刺した。
「あっ……」
鮮血が、勢い良く飛び散った。それは地面に、惨たらしく舞い降りる。うなじからまっすぐに貫いた刃はメルの喉仏を突き刺して、赤黒い血をぽたりぽたりと流している。それは見事に急所をとらえたのだろう――メルはあまりにもあっさりと、……まるで、今まで生きていたことなど嘘のようにあっさりと、絶命した。
「……め、る」
返り血を浴び、全身がメルの血に染まったノアは、がくりと倒れこんできたメルを抱えて、その場に座り込む。その場は、静寂に包まれた。木の葉がからからと転がってゆく音だけが無情に響く。
「……ノア」
椛が、ノアの名を呼ぶ。……これで、よかったはず。メルが望んだことを叶えた、そしてノアはメルへの恋心を失っているから哀しみもそのうち薄れてゆくはず。
しかし。
ノアは呆然と座り込んだまま、その場を動こうとはしなかった。心が抜け落ちたように、無表情でメルの死に顔をみつめている。様子がおかしい、椛が恐る恐る一歩踏み出し、ノアに近づいたときだ。じゃり、と足音がなると同時に――ノアは小さく声をあげた。
「あ、あ……」
「……ノア?」
ぼろぼろと、腐食した鉄が虚しく落ちてゆくような。そんな虚ろな声をあげている。涙も流していない。
――ノアの、心が壊れてしまったのだ。
ノアの心の奥深くに染み付いていた、メルへの愛。ノアの恋心がその特殊な血によって椛に移り変わろうとも、それはたしかにノアの魂の一つだった。メルを自らの手で殺してしまったことによって、それが一気に押し寄せてきてしまったのだ。湧き上がるメルとの思い出、愛しき日々がノアを責め立てて……そして、壊してしまった。
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