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「あっ……」  ノアが苦悶に顔を歪めた。首から血がだらだらと溢れ出ているのを感じ取る。食われている場所が焼け付くように痛い。それでも…… 「う、う……」  メルがノアの肉を咀嚼しながら、ぶるぶると震える。美味しい、美味しい……身体がそう言っているのに、何故か心は喜んでいなくて。自分に食べられているというのに、なぜノアは抵抗しないのか、と心の奥でメルは疑問に思っていた。いや、疑問に思うというよりも、早く抵抗してくれ、と思っていたのかもしれない。早く殺して、このままだとノアを殺してしまう、と。  メルも、ノアと同じだった。ノアが恋心を失ってもメルを想っていたように、メルも心を失ってもノアのことを愛していた。魂に、愛の破片が突き刺さって、それが抜けることはなかった。まともな思考能力も持ち合わせていないというのに、ノアを愛しいと感じていた。  だから、殺したくない。とめてくれ。どうして誰も止めないの。――それは言語によって叫ばれた想いではなく、メルのなかでひたすらに自分がノアを殺すことを嫌悪していた、そういった本能に近い想いだ。 「……メル」 「……っ」  ふとノアの声が聞こえて、メルはハッと動きを止める。止めてくれるの、このままだとノアを殺してしまうから早く止めて……そう祈って、メルはぎゅっと唇を噛んで食欲の衝動に耐える。 「メル……一緒に、死のうか」  ぽつり、聞こえた言葉にその場にいた者たちが固まった。椛も、そしてメルも。メルはゆっくりと顔をあげる。メルはもはや人語など理解できないというのに……その、ノアの声色の優しさに、何かを感じ取ってしまったのだろう。優しげに微笑むノアをみて、その瞳を震わせる。 「メル……君は、本当に優しい子だね。完全に人狼になっても……まだ、人の心が完全に壊れない。君の魂が……人とか人狼とか、そんなこと関係なく綺麗なんだ」 「……?」 「……だから、これからもきっと君は苦しみながら人を食べるだろう。……それを考えると、俺はいたたまれない、苦しい。だから、ひと思いに君を殺してあげる……でも、俺は君を殺すことができるくらい、強くはないんだ。だから、君も俺を殺して。一緒に死のっか」  メルがノアの腕のなかで固まっている。ノアの言っている言葉の意味はどこまでわかっているのだろうか。ただ、そのノアの優しい抱擁に、戸惑っているのかもしれない。 「……あと、椛。頼みがあるんだけど」 「……たのみ、」 「俺たちの死体は、別に埋葬するんだ。メルはお父様と一緒にしてあげて。そして、俺は俺の親の墓に一緒に」 「待って……本当に、死ぬつもり……」 「……椛、君と一緒にこれからを生きてもいいかもしれない。でもさ、ごめんね……俺、メルが死んだらだめみたい。狼に……心を食べられちゃった」  ノアは振り返ると、にこ、と笑った。その笑顔をみたら――もう、止められなかった。  ノアが再びメルに向き直る。そして、不思議そうな顔をしているメルを見つめ、笑った。 「メル。俺の声が聴こえるかい。俺、メルを好きになったきっかけはベリアルの勘違いのせいだった。君をエンジェリックジーンの保有者だと思って血を吸っちゃったから。いつもみたいに血を吸った、君のことを好きになって強引に迫っちゃったよね。でも……君と長い時間を過ごしていたら、本当に……本当に君のことを好きになっていた。本当の意味で恋をした。君が親の仇であっても、人を食らってしまった狼であっても……もう、俺は君に堕ちていた」 「……」  メルの瞳が震える。人間であったときのメルとはまるで違う、正気を失った瞳。しかし、なぜかそこには涙が浮かんでいた。ノアの言葉を理解していないというのに……泣いていた。 「メル。愛しているよ。君のことが、大好き。俺の不思議な体質も、君への恋心には敵わないみたい。俺……メルのことが、好き」 「……の、あ」 「……メル、今の君はキスって知ってる? ねえ、メル……俺の、最後のわがままだ。俺と、キスをして」  ノアがメルの頬を撫でると、メルは戸惑ったように視線を漂わせた。ノアの言葉の意味がわかっていないようだ。しかし、ノアの声に何かを感じ取ったのか、ノアを食べようという様子はない。ノアをちらりとみつめ、ノアのぬくもりを感じるように頬を撫でるその手のひらに頬ずりをする。ノアはハハ、と笑った。嬉しそうに。 「メル……」  ノアは、メルに口付けた。メルがぴく、と震える。しかし、抵抗はしない。じっとノアの行動の意味を考えるようにまばたきを繰り返し、そしてやがて――目を閉じた。キスの仕方など、今のメルにはわからないだろう。それでも……目を閉じた。ノアのキスを受け入れた。ぽろぽろとその瞳から涙のしずくを落としながら、しずかに、ノアの優しいキスを感じていた。 「……さあ、メル」  唇を離すと、ノアが微笑んだ。その表情に、メルが戸惑ったように眉を寄せる。ノアはそんなメルを抱き寄せて、囁いた。 「……俺だけのおおかみさん。君が人を食べるのは、これが最後だ。……ねえ――おおかみさん。俺のこと、食べちゃって」 「――……」  ノアの首筋から漂う甘い匂い。それがメルの心を刺激する。さあ、これが最後。これが私の最後の晩餐。メルはそれを理解しているのだろうか。静かに涙を流し、ノアを抱きしめ――そして、その首に歯を食い込ませる。 「……ッ」  どろ、と血が溢れ出た。焼けつくような痛みが走った。それでもノアはメルを抱きしめ続ける。少しずつ、少しずつ肉が抉れていくのを感じながら、自らの身体の一部がメルの中へ消えてゆく歓びを覚えていた。 「……メル」  その痛みに、愛おしさを感じた。メルが一口ひとくち味わうように、丁寧にノアの肉を食べている。メルの魂に、愛が届いたのだろうか。メルの食べ方には、食欲よりも、愛を感じた。 「可愛い、メル」  うっとりとした表情をしながら、メルはノアの首元に顔をうずめている。何を感じているのだろう。最期をノアと共にできる歓びを、かみしめているのかもしれない。かじって、血が溢れ出て、その甘味が舌に広がっていって……それはノアの死の味。自分が咀嚼するたびにノアが死に近づいていっていることを感じている。 「……死んだら、もう俺達を縛るものはないからね……一緒に、なれるよ。メル」  意識朦朧とし始めたノアが手に剣を出現させる。もうそろそろ、メルの牙は急所に到達するだろう。それと同時に――メルを殺す。一緒に、逝く。  じく、じく、と強烈な痛みが迫り来る。それでも、ぴったりと自分に縋り付いて、背を抱いているメルを愛おしく思う。きっと彼の表にでている狼の、その奥で、メルの魂は俺を愛しているだろう。今、愛し合っている、言葉を交わせなくてもそれを感じ取ることができる。死ぬことに、後悔はない。

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