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自分でも驚く程に、ノワールへの罵詈雑言が口から流れてくる。こんなに苛立ちを感じたことはほとんどなかった。だから、この不快感を解消する術がわからなくて、こうして言葉として発してしまうのかもしれない。
「……ハル様」
「……何」
「……どうか、怒りをお収めください」
そんなハルを、ラズワードが静かに制した。その表情は、さっきのノワールとの別れ際と同じだった。なぜかそれにまた、ハルは不快感を覚える。
「……おまえはどうして……あいつのことをそんな目でみたんだ……殺したいって思わないのか! 自分を虐げたヤツだぞ、この世の苦しみの元凶だぞ! ……じゃあいい、俺が殺してやる……いつか、あいつをこの手で殺してやる!」
「……ハル様……!」
「それでいいだろう! それでおまえも目が覚める! いい加減おまえがあの男に抱いている感情は幻想だって気づけ!」
「……違う!!」
ラズワードが叫んだ。彼はずっと静かに丁寧な言葉を話していたものだから、ハルは驚いてしまった。それと同時に、自分が変に興奮してしまってとんでもないことを口にしていたことに気づく。
「俺は……あなたにノワール様を殺してほしくない……、だから怒るなっていったんです」
「……だから、なんで……どうしてそんなにあいつを庇うんだよ……そういう風に、刷り込まれたん」
「違うっていってんだろ!!」
耳を劈くような声が響く。その怒声に、今度こそハルは黙り込んだ。こんなにも彼が感情を高ぶらせるとは考えてもいなかったので、びっくりしてしまったのかもしれない。予想しなかった展開に、ハルはただただ呆然としていた。
流石にもう自分からノワールについて何かを言おうとは思わない。ハルはラズワードの様子を伺う。ラズワードは唇を噛み、拳に力を込め、何かを抑えているようだった。やがて、ゆっくりと息を吐き、ハルを見つめる。
「……俺が、あなたにノワール様を殺して欲しくないのは……」
「……ああ」
ラズワードも落ち着いてきたようである。お互いが激昂したあとに残る、静かな空気。ハルはただラズワードの言葉を待つことしかできなかった。彼の呼吸すらも聞こえてきそうな静けさに、息が詰まりそうであった。
「あの人を殺すのは、俺だからです」
「……は?」
……殺す?ノワールに好意のようなものを持っていたとかじゃなくて?
ラズワードの口からでた言葉をハルはすぐに理解できずに、フリーズしてしまった。てっきり彼はノワールを殺されるのが嫌で、その口からでてくるのはノワールの賛美の言葉だとばかり思っていたから、ハルはわけがわからなくなった。
どう考えても、あの表情は殺意から生まれるものなんかではない。むしろあれは、親しい人……いや、愛しい人との別れを悲しむ時の表情だ。
あまりにも、食い違っている。彼は愛情と殺意がわからなくなってしまう程におかしくなったのか?いや、それにしては、彼の表情は凛としていて意思をはっきりと持っている。
「……なあ、ラズワード」
「……ハル様、申し訳ございません。とんでもない暴言を……」
「いや、そうじゃなくて」
いや、これは聞いてもいいものなのか?そもそも、聞いてどうする?
モヤモヤをスッキリさせたいという知的好奇心のようなものでラズワードに問い詰めようとしてしまったが、ハルはその意味を思案する。
ハルはめんどくさがりだ。
人とは常に一定の距離をとり。余計な感情を抱かないように、あまり考え事をしない。
それなのに。
おかしい。今日の自分は、どこかおかしい。ハルは、この今日という日の自分を振り返り、いつもとはあまりに違う自分に恐れを感じた。
ノワールという男に怒りを覚え。その彼に意味深な眼差しを向けるラズワードを見て焦燥感に駆られ。そしてノワールに自分には理解できない感情を抱くラズワードについて追求しようとする。
やめろ、こんなくだらないことを考えるんじゃない。こんなの、俺じゃない。
「……ハル様?」
「……!」
小さな声が聞こえ、ハと我に返れば心配そうにラズワードが見つめていた。その、深く吸い込まれそうな瞳で。
「……あの、本当にすみませんでした……わけわからなくなって、あんな言葉を……」
「いや、いいよ……」
そうだ、こいつだ。彼を見てからおかしくなったんだ。
ノワールにあんなに怒りを覚えたのも、いや、確かに初めから彼には多少の不快感は感じていたが、彼がラズワードを侮辱するような扱いをしたことが引き金となっている。全部、この感情をかき乱したのは、こいつだ。
いけない。
――この瞳を見つめてはいけない
「……いこう」
「あ、……ハル様!」
これ以上視界にラズワードを入れていたら、今度こそ狂ってしまう。自分が自分でなくなってしまうのではないか、そんな恐怖に駆られたハルは、ラズワードを抜き去り、歩を進めた。早足で歩き、後ろから焦ったように自分を追いかける音が聞こえてきてもそのスピードは緩めない。
名のわからない感情が。凄まじい不快感が。胸の中に蠢く。疼き、叫び、藻掻き、心を犯してゆく。
――やめろ
――俺は……!!
光が見えてきた。出口だ。
意識が出口の光に向いたからだろうか。ほんの少しだけ、心が晴れたような気がした。
立ち止まれば、追いついたラズワードが横に立つ。ハルはそれに気づいたが、極力彼を視界に入れないようにした。
チリチリと、心が焦げてゆく。
この感情の名を知らない。この焦燥が……不快だ。
「でよう」
「……はい」
壊れていく。心が、自分が、世界が。
なぜ、だろう。ずっと、楽に生きていくと決めたのに。作り上げてきた自分の世界が、ガラガラと音を立てて、壊れていく。
それは怖くて、痛くて、苦しい。知っていた。だから嫌だったんだ。
ああ、でもこれは知らなかった。色がある。世界には色がある。
ひび割れて壊れた世界の後ろには、また新しい世界が広がっていた。ガランと音を立てて落ちてきた世界の破片は、白黒だ。そう、今までの世界に色はなかった。でも、どうだ。新しい世界は。色がついている。
古い世界は全ては壊れてはいない。真ん中だけに穴があいて、そこから新しい世界がチラリと見えるだけだ。その穴から、見えるのだ。新しい世界が。始めての、色が。
その色は。
まるで、美しい空のような。
青だった。
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