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 ハルは自分でもその体の動きが理解できなかった。たぶん、防衛本能だ。意識していないのに、身の危険を察知した脳が足を動かした。  では、なにが危険だというのか。ラズワードが自分に敵意がないことなどわかっている。その強大な力をこちらに向けるわけがない。  ……そう、危険なのは心。不快というそれを超えた感情に、自分のキャパシティを超えた知らない感情に。心が侵される、満たされる。  なんだ、なんなんだこれは。  ハルは胸のなかで蠢く何かに、吐き気を覚えた。今まで心が無駄に動かないように余計な感情を抱えることを避けてきたハルにとって、今の状況はおぞましいものだった。感情が暴れ狂っている。止め方が、わからない。 「……ハル様?」 「……あ」 「具合、悪いんですか? 顔色が優れないですよ?」  気づけばラズワードはすぐそばまで近づいてきていて、ハルはもう固まってしまった。頭がパニックになって動けない。予期せぬ事態に脳が対応できていない。 「体調の不良でしたら、治癒魔術で治せます。……ちょっと失礼してもいいですか?」 「えっ」 (ち、治癒魔術……!?)  それを聞いた瞬間、ハルはカッと血が上昇するのを感じた。  魔力は体液に宿るという。それをつかった魔術を行使する場合、その体液と対象を触れ合わせなければいけない。戦闘においては、プロフェットなどの特別な武器を使用することで、魔術のその面倒なメカニズムを補助することができるのだが。  ハルは、今まで見てきた治癒魔術を思い出す。  体液を傷に触れ合わせるために、大抵の場合、水魔力をもつ彼らは……唾液を使っていた。つまり、傷を舐めていた。 「ちょ……まて、ラズワード」 「え?」    制止の声を上げたハルを、ポカンとした顔でラズワードが見上げている。その表情に、なぜかさらに心拍数が上がっていく。 「……だめ、でしたか?」 「いや、だめっていうか……そうじゃなくて……」 「……たしかに……ハル様のような高貴な方、奴隷の俺が触れていいわけないですしね……すみません、出過ぎたことを……」 「ち、違う……そういうことじゃなくて……ああ、もう、いいよ、お願いします!」  淡々と自分を卑下するようなことを言ったラズワードに、ハルはヤケになって叫んだ。そうすれば、よかった、と安堵した表情をラズワードは見せる。 (やばい……なんかこの状況やばい……)  確実にバクバクとうるさく鼓動はなっている。今まで体験したことのない、その体の動きにハルは戸惑いを覚えた。 「……それじゃあ、やりますね」  落ち着いてそう言うラズワードに、ハルはただ頷くのみだった。たぶん今声を出したらひっくり返るからだ。  近寄られると、僅かに身長差があることがわかる。ラズワードは対して他の男と身長は変わらないから自分が大きいんだ、……なんてそんなことは今のハルには思いつかない。   普段よりも少しだけ上目遣いに見られて、いよいよ心臓は爆発寸前である。  そんな風にハルが狼狽えていれば、ラズワードは少し考えるように目を閉じた。 (え、その顔はアウトだろ……まて、いや、ほらやっぱダメだって……ストップ、とまれ、まてまてまて――)  パシ。 「……へ」 「……あれ、特に変なところは感じられませんね……強いて言えば多少体温が高い……いや、不整脈も……」  目を開ければ、ラズワードが困ったような顔をしている。いつの間にかハルが目を閉じていたことは置いておいて、とにかくハルは予想とは違うラズワードの行動にまたもや混乱していた。  ラズワードは、ハルの額に手をあて、じっとハルを見つめていた。その手のひらからは、微かに魔力の波長を感じ取ることができる。 「……え、粘膜接触……じゃなくていいの」 「え? 体液さえあなたに触れていればあなたの体を読み取ることはできますよ」 「いや……体液触れてないじゃん」 「触れてます。皮脂を通して俺の魔力はあなたに届いているので」  皮脂? んな馬鹿な。  ハルは自分の額に触れているラズワードの手を掴んで、観察をはじめる。治癒魔術は簡単な魔術といえども、それなりに魔力は消費する。皮脂程度の微量な体液にその魔力を込められるわけがない。ハルがぐるぐると思考を巡らせていれば、ラズワードが言う。 「人によって、同じ量の体液でもその魔力の密度は違うんですよ」 「……いや、知っているけど……それにしたって」 「俺は治癒魔術くらいのものなら手で触れるだけでできます。……昔から驚かれてましたね」 「……」  また昔を懐かしむように笑ったラズワードをハルは見つめる。その淡い笑顔に心をかき乱されそうになったが、なんとかそれを鎮め、見つめた。  そこにあるのは、青い瞳。黒に近い青、闇を飲み込んだような青。  魔族は瞳の色の濃さである程度その体に宿る魔力の量を測ることができる。黒なんて色はあまり存在しない。するとしたら、常軌を逸した化物くらいだ。  いままで見てきた水の魔族は、薄い水色の瞳をしていた。それが、彼はどうだ。この色、この青。化物の色とされる黒に近い、深い青。  たしかに、こんな色の瞳をもつ彼ならば、治癒魔術くらい軽くやってのけられるかもしれない。ハルはラズワードを見つめ、そう納得する。 「は……ハル様……」 「……え? ……あ! ごめん!」  ラズワードに困ったような声で呼ばれ、ハルは彼の手を掴みっぱなしにしていたことに気づく。慌てて解放してやれば、ラズワードは静かに言う。 「ハル様……俺は、どうでしょうか」 「え?」 「奴隷として、あなたのモノとして使えますか?」  青い瞳は、不安の色に染まっている。  本当に、自分を奴隷だと、モノだとそう認識しているということだ。ハルはその事実に些か苛立ちを覚えたが、その理由については思案しないようにした。  奴隷なら奴隷でいい。俺に深く関わってこないのなら、その身分なんて興味はない。  心のなかで、ハルはそう唱える。そうしていなければ、また心が壊れそうになるからだ。 「……ああ、おまえを買ってよかったと思うよ。最高の奴隷だと思う」 「そうですか……よかった」  ラズワードが笑う。  そんな風に笑うなよ。自分を奴隷だなんて思うな。人としての誇りを捨てるな。おまえを捨てるな……!  心に浮かんだ邪念を、ハルは打ち砕く。   「帰ろう」  そしてぶっきらぼうにそう言って、不快な感情を忘れようと、彼に背を向けた。

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