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精神が著しく弱ったとき、人は人の温もりを求めてしまう。今のラズワードの状態はまさしくそれであった。憎いはずのノワールにそれを求めてしまっているのだ。ラズワードは体の衰弱に伴って精神も壊れかけていたのである。
ノワールはそれをわかっていた。きっと体が回復すればまた、ラズワードは自分をはねのけるであろう。
わかっているからこその、行動である。ノワールは優しくラズワードの頭を撫でて、言った。
「……いかないよ。君がそんなことを言っているうちはここにいなくちゃいけない」
「……」
ラズワードが奴隷候補としてこの牢に入れられてから、ひと月ほど経っている。そのあいだ、ラズワードはほとんどの時間をノワールと共に過ごしていた。もっとも、調教の時間は彼は全く関わろうとせずに牢の片隅で作業をしているだけだが。
これほどに同じ時間を共に過ごしていれば、どんなに彼が分厚い仮面をかぶろうとも、その本性はなんとなくわかってしまうものだ。
ノワールはラズワードのことを完全に「奴隷」として見ていて、且つ「人間」として見ている。常に冷たい態度はとっているが、こちらが弱っている時のみ、彼の仮面の内側を見ることができる。ただここで間違ってはいけないのは、その仮面もちゃんと彼の一部であるということ。彼は「善人」であるということは絶対になく、「悪人」なのだ。
彼が「悪人」であるからこその優しさ。自分が虐げている人間に対してこうして何も思うところもなく、優しさを見せている。「善人」だったのなら、優しさを見せることに後ろめたさを感じるに違いない。
全部、わかっていた。ノワールは自分をなんとも思ってはいない。一人の「特別な物質的価値のある奴隷」としか思っていない。
だから、絶対にラズワードは彼に心を許したりはしなかった。たとえ、その優しさに溺れようとも。
「ラズワード……体の調子は? 呼吸はすこし落ち着いてきたね」
「……普通」
「そう、じゃああと少しここにいようか」
「……」
だからこそ、使ってやる。憔悴しきった体と精神を癒す手段として、この優しさを。乾いた土が水を欲するように、優しさを求める自分の心を否定したりはしない。優しさを与えてくれるのなら、存分にそれを有効に利用させてもらう。
ラズワードはいくらかの時間をノワールと過ごすなかで、彼のことをそのように思っていた。
だからこそ、心が揺れるときがある。それは、会話や表情の中にほんの一瞬あらわれるのだ。「冷たさ」とも「優しさ」とも違うものを見せるとき。彼がラズワードに見せる必要のない感情を、見せるときが。
例えば。
「……眠れない? 早く寝ないと明日の訓練に支障がでるけど……」
「……まあ、……体が落ち着かないから……気になって眠れない」
「ああ、やっぱりまだ少しだめみたいだね。でもね、頑張って睡眠はとってもらわないと。……そうだ、眠くなるように昔話でもしてあげようか」
「……かってにしろ」
意識ははっきりとしてきたが、未だに体の疼きは止まらない。人肌恋しいとか思うような感情は薄れてきてはいるが、たぶん体が求めている。彼の話になど興味はないが、彼の声を聞いていたと感じた。
ノワールはラズワードの返事を聞くと、少しだけ笑う。髪の毛を指でゆっくりと梳かれると、その心地よさにラズワードは目を閉じた。
「ラズワード、『Lucifer』は知ってる?」
「……少し」
「うん、レッドフォード家にいくんだからちゃんとそれは覚えていないとね。今日はその物語を教えてあげるから、聞いているんだよ」
「……眠らすつもりじゃないのかよ」
「ああ、そうだったね」
はは、と笑ったノワールの表情を、目を閉じていたから見逃してしまった。ラズワードはなんとなくそれを惜しいと思う。
『Lucifer』はたくさんの著者が書いていて、大筋こそは変わらないものそれぞれで物語の印象は大きく異なる。昔話にありがちな現象ではあるが、ノワールの話を聞いているとその話もまた彼なりの解釈が入っているような気がした。
前にノワールは、「書庫にあった本は全部読んでいて、その全てを覚えている」と言っていたことがある(この施設の書庫だと考えるとその本の量はとんでもないことになるが、ラズワードはあまりその点については考えないようにした)。その書庫にもこの有名な『Lucifer』は何冊か存在するだろう。きっとノワールはそれも全部読んでいて、『Lucifer』は色んな視点で読んでいるに違いない。それをこうしてまとめて話すには、それぞれの物語から取捨選択をするうちに、どうしてもそこに主観が入るはずなのだ。
ノワールの取捨選択はなるほど、彼らしいものであった。彼が最も細かく語ったのは、主人公「ミカエル」でもヒロイン「ガブリエル」でもなく、悪役「ルシファー」だったのだ。
ルシファーが弟ミカエルを裏切った経緯。ガブリエルを奪った理由。その全てに悲劇的理由など一切なく、彼は本物の外道であったこと。他人の嘆きを蜜とする悪魔であったこと。それをノワールは話していた。
「もしもルシファーが本当は善人であったのなら、ガブリエルを自分のものにしようだなんて思わないだろうしね」
「……ふうん。なんで? 確かに弟から奪うって形になるけれど、好きな人を欲しいって思うことが「悪人」に繋がるのか?」
「だって自分のものにしたら、好きな人が自分の色に染まっちゃうんだよ。綺麗な彼女が、醜い自分の黒に」
ノワールは笑いながらひらひらと自分の手を動かす。
「別に俺が「善人」だと言いたいわけじゃないけど……俺はできない。好きな人に触れたいと思わない」
「……その人を穢すから?」
「……そう。俺の手は『みどりのゆび』とは逆だね。花を枯らす力をもっている」
「……『みどりのゆび』? なんだそれ。ゾンビ?」
「違う違う、ヒトが作った物語だよ。昔読んだんだ。花を生み出す力をもつゆびのことだよ」
ラズワードの勘違いが面白かったのか、ノワールは笑っている。そんなヒトの作った物語なんて知っているわけないだろ、とラズワードはイラっとしたが、彼の笑顔が柔らかかったからか、すぐにその怒りも引っ込んだ。
「俺はその少年とは違う。俺の触れた花はたちまちに枯れて、その首は腐り落ちるんだ」
「……よくわからない、あんたの言っていること」
ラズワードはノワールの指先を見つめた。もちろんその色は緑でもなければ黒でもない。細く白い、綺麗な指をしていた。
「すごいだろ。俺は花を枯らす魔法が使えるんだ。どんなに美しかったものも、俺が触れたら穢れてしまう。俺の体に染み付いた血の匂いと人の嘆き悲しみが伝染ってしまうんだ」
「……そんなゆびを持っているから……だから、自分は花に触れないって言いたいのか?」
「……そうだね。……俺は、さわれない」
なるほど、それで「ルシファー」を「悪人」と判断するわけか。美しい花を枯らすことすらも悦んだ彼のことを。
一瞬ノワールの目が揺れたような気がした。今何を考えたのだろう。
ラズワードはその「花を枯らす魔法」が使えるらしい彼の綺麗な指先を見て、心のなかで舌打ちをした。
「……くだらない」
「ああ、うん。そうだね。ちょっと子供騙しにもほどがあったかな」
「……そうだよ。そんな魔術は聞いたことがない。まずどの属性の魔術だ、どんな魔術式を使ったらそんなことになるんだよ」
少し苛立ったように言うラズワードを、ノワールはポカンとした顔で見ていた。珍しい表情である。
そんなノワールの手に、ラズワードは触れる。一瞬ビクリと動いたそれを抑え込むようにラズワードは手に力を込めた。
「……ほら、やっぱり何も起きない。そんな魔法使えないだろ。……俺が既に枯れているだけかもしれないけどな」
「……」
ノワールがフッと笑う。どこかその声に、泣き声のようなものが混じったような気がしたが、それは完全に気のせいだった。
その顔を見ればノワールはただ微笑んでいただけであった。
「……君は枯れてないよ。綺麗だから」
「……だったらやっぱり魔法が使えていないってことになる」
「……うん……そうだね」
ラズワードの手の中にあるノワールの手が少しだけ動く。甲を向けていたそれは反転し、少しずつ感触を確かめるようにラズワードの手を握った。
「……でも……君がただ……どんな魔法でも枯れない、強い花なのかもしれない」
自分が「花を枯らす」魔法を使えるということを曲げる気のないノワールに、ラズワードは苛立ちが募った。そんなにも、強がりたいのか。どうしてその魔法を使えると言い張るんだ。
――そんなに、泣きそうな顔をしながら。
口には出さなかった。ただ、ラズワードはその手を握り返した。
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