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***  ティーカップに残る最後の一滴を飲み干すと、豊かな紅茶の香りが口内に広がった。ラズワードは空になったカップをハルから受け取り、ベッドサイドに置く。 「ラズワード、紅茶淹れるの上手くなったな」 「ありがとうございます。元々紅茶の味は舌が覚えているので、そう苦労はありませんでしたが」 「そっか、おまえも貴族の出だもんな」  一日が終わろうとしている時間。寝室にはハルとラズワードの二人だけであった。ベッドに隣り合って座ると、妙に緊張してしまう。 「あのさ、さっきあの人を殺すとか言っていたけど……それってノワールのことだよな?」  ハルは沈黙を作らないためにも、適当な話題を振ろうとする。慌てて引っ張り出した話題だからか、少し唐突な上に重いものとなってしまった気がするが、ラズワードは表情を変えることはない。 「……そうです」 「……本当にあいつのこと殺したいとか思っている? なんかさっき、おまえ様子おかしくなかったか?」 「おかしいというと?」 「だって……なんか悲しそうっていうか……」  青い薔薇を抱きしめたときの表情。髪に隠れた瞳はよく見えなかったが、憎しみとか嫌悪といったものではなかったはずだ。 「……悲しそう……と言われましても。別に無理にやらされるわけでもないし、俺の意思で殺したいわけですから……そんなこと思っていないはずですけど」 「……そうなのか? じゃあ、なんで殺したいの? 憎い、のか?」 「……さあ。その理由を説明しろと言われても、できません。俺だってよくわからない。……ただ、あの人は殺さなくてはいけない。そう思うんです」 「……ふーん」  これは、話題を間違えたかもしれない。ラズワードは詳しく語るつもりもないし、語ることはできないのだ。それでも、ノワールに対する何らかの感情がラズワードを支配していることは間違いないだろう。彼の話をするときにラズワードは、普段と違う表情を見せるのだ。  少し悔しいと思った。例えその感情が憎悪であったとしても、嫌悪であったとしても。彼の中を、あの男が満たしているのだと考えると。  ハルの隣りで静かに座っているラズワードは、全てが美しかった。白い肌、さらさらとした髪。すっと通った鼻筋も薄く形の良い唇も。この世に散らばる宝石など目じゃないほどに綺麗な青い瞳が。形容し難い不思議な甘い香りは、何よりも芳しく。  自分の奴隷であるはずなのに。形式的には、確かにハルの所有物であるのに。心だけは、手に入れられない。 もしも、あの男のことなど考えられないくらいに壊してやったなら、自分のものになるだろうか。この美しい身体に自分の全てを刻みつけたのなら。 「……っ、ハル様?」  気付けば、ハルはラズワードのことを押し倒していた。突然であったからか、ラズワードは驚いたような表情をしている。  しかし、抵抗はしなかった。その細い首を隠す襟のリボンを解き、シャツのボタンを外していけば、彼は黙ってそのハルの動きを見守っていた。呼吸の度に上下する胸の動きが微かに早くなっていっている。こく、と彼の喉がなって、静かにその唇から吐息が漏れた。  奴隷は、主人のどんな欲望にも応えられるように調教されるのだという。ラズワードも例外ではないのだろう。急に押し倒され、服を脱がされるという状況に、確かに彼は欲情していたのだ。僅か赤く染まった頬と、期待に濡れた瞳がそれを物語っている。  ……ああ、やれる。ここでやろうと思えば、彼を蹂躙し激しく突いてよがらせて狂わせて。身体からラズワードの全てを自分のものにしていくことが。 「……っ」  馬鹿じゃないのか。  ハルはぐっと唇を噛み締めた。そんなことをしてラズワードを自分のものにしたところで、この手になにが残るというのだろう。虚しさ、後悔。そして彼本来の美しさは全て枯れる。手のひらに残るのはきっと、枯れ落ちた花だろう。 「……ハル様?」  はだけたラズワードの胸元に、ハルは顔を埋める。すべやかで、ほんのりといい香りのする彼の肌。 とくとくと聞こえてくる心音。  ああ、自分は今、これを壊そうとしたのか。 ハルは自分を戒めるように、ラズワードの体を静かに抱きしめた。 「……? あ、の……?」  今にも情事を始めるような空気が一瞬で変わってラズワードは戸惑ったのだろう。少しだけ上半身を浮かせてハルの様子を伺ったり、行き場のない手をどうしようかとおろおろしていたりしている。 「……ハル様……? その、やらないんですか……?」 「……」  顔を上げてラズワードを見てみれば、彼は拍子抜けしたような、残念そうな、そんな顔をしていた。施設で身体に快楽を焼き付けられているのだ。体を押し倒されて服を脱がされるという行為だけでも、身体は熱をもってしまうのだろう。 「……ごめん、変なことして。……やらないよ」  そんな彼に期待だけさせて途中で投げ出してしまうというのは悪いような気がしたが、やはり理性が体を動かさない。心が結ばれていないとわかっていながら、好きな人を抱きたいとはどうしても思えなかった。  本当に、くだらないことを考えるようになったと思う。こんな女々しいことをグダグダと考えてしまうということはわかっていただろう。誰かのことを好きになんてなったりしたならば。  だから特別な感情なんて抱きたくなかったのに。それでも、気づいてしまった感情の名前は、ハルの心を支配してゆく。  今、目の前にいる人のことで、頭のなかはいっぱいなのだ。 「……ハル様」  だから、そんな風に濡れた瞳で見つめられてしまっては、ハルの理性は崩壊寸前である。触れたい、触れたい……と騒ぐ心を、抑えつけるので精一杯だ。 「……最後まで、とは言いません。……少しでいいです……触れて……いただけませんか……?」 「……な、い、いや……だめだよ……」 「……なぜですか? 俺に触れるのが嫌ですか?」 「そ……そうじゃなくて……た、たぶん……触れたら……止まらなくなる、から……」  カッと身体が熱くなっていくのが自分でもわかる。自分がとんでもないことを言っているのはわかっているが、そうでも言わなければ体が動いてしまう。 「……触れるのは嫌じゃない……もしかしてハル様は性的なことはお嫌いですか? この前も拒否しましたけど」 「そういうわけじゃ……いや、もちろんずっとそういうこと考えたりなんてしてないからな!」 「……じゃあ……よくわかりませんけど……俺に触れるのは嫌ではないのにセックスはしたくないんですね」 「……へ?」  ぐい、とラズワードがハルの体を押して起き上がった。僅かにその唇は弧を描き、情欲に濡れた青い瞳がハルをじっと見つめる。 「……でも、セックスの兆しを感じたら本能に逆らえなくなってしまうから、俺には触れない」 「ラズワード……?」  ラズワードがとん、と頭をハルの胸に当てる。指でツ、と胸の中心をなぞられ、ハルはビクリと身じろぎをした。  す、と顔を上げたラズワードは目を細め、うっすらと微笑む。 「……ご主人様……どうか、卑しい私にお情けを……」 「え」  きゅ、と何かに腕を拘束されたような感じがした。  見ればラズワードのリボンタイで手首が後ろ手に拘束されているのだ。ハルが驚いてもう一度ラズワードを見やれば、彼はただ微笑むばかりである。 「止まらなくなってしまうなら、動けないようにすればいいでしょう?」 「お、おい……何を……」 「大丈夫です……最後まではしません……これ以上衣服をはだけさせることもない、です」 「は……」  そう言うとラズワードはハルの膝の上に乗る。呆然とハルはその様子を眺めることしかできなかったが、腕を背に回されたとき、妙なことを思ってしまった。 「え、まて……この体勢は、まず……」 (これ、対面座位じゃねーか!)    そう、今ラズワードがハルにしていることは、擬似的なセックスとなんら変わりのないことだ。臀部の割れ目をハルの股間に密着させ、はだけた胸元をハルの胸板に押し付ける。ラズワードのため息のような熱い吐息が、耳元に感じる。  挿入もしていないし、服も着ているがむしろそれが倒錯的で卑猥であった。その証拠に、情けないことにもハルのモノは起立してしまっていた。 「ら、ラズ……」 「っん……」 「……っ!」  服の擦れる音とベッドの軋む音が、妙に大きく聞こえてくる。ゆるゆると上下に揺れるラズワードの体。胸元に、服越しにではあるが、硬くなった小さな突起を感じた。   「ぁ……っ、ん、……」  小さく、秘めやかに彼の唇からもれる艷声。しゅ、と小さく布の擦れる音にすらもかき消されそうなそれが、ひどく耳に熱くまとわりついてくる。  バクバクと全身が心臓にでもなったような感覚。鼓動の度に視界が揺れる。ほんの僅かな刺激、小さな音。それすらに大きく体は反応する。  目の前には、彼の細く白い首筋。襟足はさっぱりと整えられたサラサラの髪から覗くうなじは、ひどく甘美な色香を発していた。たまらず噛み付きたくなったが、既のところでハルはそれを堪える。  ぐ、ぐ、と硬くなったモノはラズワードの後孔を布越しに刺激する。ハル自身その刺激に目眩がするようだったが、ラズワードもそれは同じらしい。ぴったりと密着した部分は、布を挟んでも、きゅうきゅうと収縮を繰り返していることが丸分かりであった。 揺れる、揺れる。吐息の溢れるような、甘い声。  体が動く度に、彼の仄かな甘い香りがハルの鼻孔をつく。ふと、体が揺れた拍子に唇が彼の首筋にあたって、思わず、そのまま舌を出して舐めてみてしまった。チロ、とほんの少し。 「んっ、あ、……!」  そうすると、今まで儚い声を出していたのが、急に大きくなった。ぴくん、と僅かに体が跳ね、ハルの背を抱く腕に力がこもる。 「ハル……様……、あ、はぁっ……!」  彼の反応。そして、自分の名を呼ぶ、その声。  それがヒビが入っても崩れることのなかったハルの理性を、壊してしまったのか。ハルは目の前の甘そうな白い首筋に、軽く噛み付いた。そして、じっとりと舌を這わせ、彼の滑かな肌を堪能する。 「あ、あぁ……」  ラズワードは力が抜けたようにハルの肩口に頭を預ける。く、と伸びた首筋は更に綺麗で、艶やかだ。つい、とそこに舌を動かせば、ハルに全てを委ねたようにくたりとした体が、ぴくぴくと反応する。  耳元で、甘い声がふわりと響く。それは頭の中で木霊して、残響のように離れない。  舌の動きに伴ってそれが聞こえてくるものだから、今、自分がラズワードの全てを支配しているのではないかという錯覚に捕らわれる。柔らかな肌にほんのわずか歯を食い込ませれば、はじけたような、可愛らしい声が聞こえてくる。  もっと聞きたい。その声を。艶やかで、愛しい、おまえの声を。

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