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「……」  グラリ、と視界が歪むような感覚を覚えた。  始めの頃の、業務連絡だけの会話。最近になって、他愛のない話を少しするようになった。彼の、本来の笑顔を少しだけみることができるようになってきた。  目を閉じる。奥歯を噛み締める。 「――っ」  殺せるのは、今、この瞬間のみ。俺だけだ。 「……あ」  ラズワードは上げた腕を止めた。  目が合ったのだ。ノワールと。起きていたのか、今起きたのかは定かではないが。彼はその黒い瞳で、しっかりとラズワードを見ていたのだ。  今を逃したら、もうない……!  ラズワードは勢いよく、その首を掴んだ。殺す方法など考えていなかった。 しかし、何も武器のないこの状況。ぱっと浮かんだ方法がこれであった。 「……ひっ」  しかし、ラズワードはすぐに手を離した。見つめてくるノワールを恐れたのではない。  その首が、細かったから。  悪の頂点。世界を占める男。数々の悪名を轟かせる、闇を支配するこのノワールという人。  その人は、どんな兵器だろうと軍隊だろうと、殺せないとまで言われていた最強の男で。素性を知っている人すら少ないその体は、闇の粒子でできているとかまで言われていた。  しかし。その人の首は、思ったよりもずっとずっと細く。下手したら片手でへし折れそうなくらいに、細かったのだ。  普通の人間と、同じように。  ノワールは何も言わない。ただ、狼狽えるラズワードを見つめている。  まるでその瞳は。「■してくれないのか」、そう言っているようで。 「……っ」  ラズワードは逆らえなかった。震える唇を噛み締め、恐る恐る手を伸ばし。    もう一度、その首に触れた。 「――」  少しずつ、力を込める。  手の震えが止まらない。冷や汗がダラダラと吹き出てくる。   「……っ」  苦しそうな吐息が、ノワールの唇から漏れた。それでもその瞳は、ラズワードのことを見つめ続けている。  早く、手を離せ……! 本当に死んでしまう……!  そう頭の中で叫んでも、なぜか手が動かない。  そうだ、きっと。ノワールが抵抗しようとしないからに違いない。  なぜ……なぜ、抵抗しない……!?  見つめるその瞳は、時折首を絞めるラズワードに制止を求めるように睨んでくるが、それならばどうして体で抵抗しようとしない。その手はラズワードの腕を掴んで、時々引き離そうともするが、ノワールの全力はそんな力ではなかったはずだ。  死を拒む素振りを申し訳程度に見せてはいるが、それは建前で、本心はまるで■されることを望んでいる。  なぜ……? この人は、■されることを望んでいるとでもいうのか……?  なんのために? 「……っ」  グラグラとゆがみ始める視界の中、ラズワードは記憶の片隅にある、ノワールとの会話を思い出した。  自分は醜いから。そういって、ラズワードの手をおそるおそる握ったときの、顔。泣きそうな、その表情。 「……」  ミシ、と骨が軋む感触が、手に伝わってきた。気管が苦しそうに、びくびくと動いている。  ラズワードの腕を掴んでいた手が、何かを諦めたようにするりと落ちていく。まだ意識を失ってはいない。自分の意思で離したのだ。  そして、ラズワードを見つめていた瞳は、閉じられる。  その顔は。苦しみ、喘いでいるのか。それとも――殺されることを、歓んでいるのか。 「――ふざけんなっ……!!」  ラズワードは叫び、手を離した。その瞬間、ガクリと体が崩れ落ちてノワールの膝の上にもたれかかった。  勝手にボロボロと涙が溢れてくる。涙で歪む視界の中、ノワールはゲホゲホと苦しそうに咳をしている。 「ふざけんなよ……!! 抵抗しろよ……!! おまえ、今殺されようとしていたんだぞ……!?」  ラズワードは口元を抑えるノワールの腕を振り払って胸ぐらを掴み、引き寄せる。苦痛から解放されたばかりのその虚ろげな瞳を無理やり自分のそれと合わさせて、叫んだ。 「そんなに……!! そんなに、おまえは……死にたいのか……!!」  溢れる涙を鬱陶しいと、そう感じる余裕もないほどに、ラズワードは必死に叫んだ。  自分でも、わけがわからなかった。 「……っ、」  白い首に赤黒く跡が残っている。苦しげな吐息が聞こえてくる。 いっぱいいっぱいの表情で見上げるラズワードを、ノワールは静かに見つめた。何を考えているのかわからないその瞳は微かに揺れている。そして一瞬、その瞳が苦しげに歪んだ。 「……ラズワード」 「……!」  名前を呼ばれた、そう思うと同時に強い衝撃が体を襲った。何が起こったのかもわからずラズワードが目を白黒させていれば、世界が反転する。  思い切り蹴り飛ばされ、そして押し倒されたのだ。抵抗する隙も与えないその技はノワールだからこそできるもの。ラズワードは押し倒されるその瞬間まで、なにがどうなっているのか理解することもできなかったのだ。 「……ノワー……」  いきなり何をするんだ、そう抗議しようと思ったその瞬間。眼前に迫ってきた物体に、ラズワードは肝を冷やした。それは眼球まであと数ミリ、といったところで止まる。 「……寝込みを襲うのに絞殺を選ぶとはあまり感心できないな。相手が死に至るまでに時間を要する。自分よりも強い相手にそんなことをして、抵抗されてしまうということは考えなかったのか?」 「……な」 「滅多にこないチャンスだからこそ、慎重にいくべきだ。その状況において確実に相手を仕留められる方法はなにか。絞殺よりも優れた方法は本当にないのか……そんな判断もできないようなら、お前はいずれ……」  ノワールがラズワードの眼球に突きつけたのはペンであった。そんな本来武器として使えないようなものを突きつけられ、それでもラズワードは命の危険を感じて動くことはできなかった。 「……死ぬぞ」 「――っ」  本能的な恐怖からだろうか。ラズワードは何も言葉がでてこなかった。ノワールに言いたいことはたくさんあるのに、彼の眼光が今まで見たどの時よりも鋭くて、見えない圧力となってラズワードに襲いかかっているのだ。 「調教が足りなかったか? 調教師に向かってこんな態度をとるなんてな」 「……の、ノワ……」 「……俺が死にたいかって? 馬鹿を言うな、ラズワード」 「な……だ、だって……」  こんなに感情的になっているノワールは見たことがない。はっきりと言い表すことはできないが、いつもの彼とは明らかに違う。声色もいつもに増して冷たくなっていて、その瞳の闇は深みを増していて。  まるで本心を隠しているかのような。

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