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「あ……」
「おかえり。ラズワード。どう? ちゃんと気づけた?」
「……知ら、ない……こんな感情……名前が、わからない……」
眩い青の夢から覚めれば、目の前で紅い瞳の悪魔が笑っていた。
ギリギリと締め付けられているかのように痛む心臓、勝手に伝ってくる涙。この胸の中で渦巻く感情の名前が、わからない。なぜイヴが「愛する人」を問う質問のなかでこの夢を見せてきたのかもわからない。愛は暖かいもの……こんなに苦しい感情とはかけ離れているはずなのに。そう、知ったはずなのに。
「……俺の、愛する人を知りたいんじゃないのか……違うだろ……今のは……今の人は……」
「違う? なぜそう思う?」
「なぜ……? 俺は……あの人のことを考えたとき……暖かい気持ちになんてならない……! ただただ、辛いだけだ……苦しいだけだ……! こんな感情、「愛」なわけないだろ! こんなものを「愛」だっていうなら……なんでこんなものを皆称えるんだよ……馬鹿じゃないのか……!!」
「ふ、泣いちゃって……可愛い」
イヴはラズワードの言っていることを気にする様子もなく、微笑んだ。麻痺が身体に行き渡って自分の体重を支えられなくなったラズワードを抱き寄せ、涙に濡れる瞳にキスを落とす。
……「愛」が、幸せを生むとは限らない。ただ心を破壊するだけの時だってある」
「……そう、わかっているなら……俺は……」
「無理だね。「愛」って制御できる感情じゃないし」
「だから……! 俺は、あの人のこと愛してなんかいない……!」
ずるりと体を滑らすラズワードを、イヴは抱きしめる。髪を指ですくい、そこに唇を寄せる。ラズワードは抵抗もできず、ただされるがままになっていた。イヴの胸に体を預けることは屈辱的に感じたが、体が動かずなにもできない。ただ、嗚咽を漏らしながら泣くことしかできなかった。
「いいよ……それで。見て見ぬフリをすればするほどに……無視された君の中のその感情が育ってゆく。気付いたときにはもう、君の心はそれに食いつぶされてしまうかもしれない」
「……っ、俺は……」
「見せてくれ。君の壊れてゆく様を……もっともっと、その感情を育てるといい」
はは、とイヴが笑う。その声をラズワードは聞いていることしかできない。愛おしそうに撫でてくるその手を、今にも振り払ってやりたい。訳のわからないことを言われて、勝手に頭の中で妄想されるなんて、たまったものじゃない。
(俺は……あの人に対しては、殺意しかもっていない……!)
ラズワードは動かない体を無理やり起こす。がくがくと震える腕で体を持ち上げ、首をあげ、イヴを睨みあげた。
「俺は……あの人のことを絶対に殺す……! 俺は……っ」
「ふっ……言ってればいい。今日はいいよ、今度また、楽しませてもらうから」
「……何、」
「今日のところは、身体的な苦痛のほうで我慢するね。味見くらいしたいんだよ……『vergasen』!」
イヴがにやっと笑ったその瞬間、ラズワードの痺れが一気にとれる。パトローネに違う命令を与えたのだ。今がイヴを殺すチャンスだ、ラズワードはそう思ったが、少し遅かった。
ガクン、と急激に体の力が抜けたかと思うと、強烈な痛みが体中に走る。そして、何かがこみ上げてくる。
「――うっ……!!」
抑えようと思って口を手で塞いだが、意味がなかった。それは口から溢れ、指の隙間からつたい落ちてくる。口から吐いたのは、大量の血。
ラズワードはそれを見て、イヴの命令が毒の呪文だと悟った。それもおそらくグラエムの時よりも数倍強力なものだ。体を貫くような激しい痛みも、レーメンの超音波によって魔術を妨害されて治すことはかなわない。
「あっ……、……う、」
「うん? 結構いい表情するじゃん。これでこんな顔ができるんなら、心が壊れたらどんなに素敵なんだろうね」
ガクガクと震えながら血を吐くラズワードの顔を覗き込むようにイヴは見ていた。顔を真っ青にし、脂汗をかきながら咳き込むラズワードの顔を舐めるように見続ける。
何かが腹の中で暴れ狂っているような感覚。内蔵が破壊されているような、そんな痛み。息をしようにも血でむせてしまって上手くできない。痛みと酸欠で、意識を失ってしまいそうだ。
(まずい……このままだと……)
これほどの苦痛は今まででもほとんど感じたことはない。下手したらここで死ぬ。イヴは加減がわかっていないんじゃないか、本当はここで殺すつもりなんじゃないか、そんなことをラズワードは思う。
(死ぬわけには……死ぬわけにはいかない……!! 俺は……あの人を殺さないといけないんだ……!!)
意識が飛んでしまわぬように拳を握り締める。頭に浮かんだ青の夢、あの人の消えゆく笑顔。儚きそれが、ラズワードの意識をなんとかつなぎとめていた。
「……!」
バサバサ、と翼を羽ばたかせる音が聞こえる。
上だ。上にレーメンがいる。あれを撃ち抜いて殺せば、この状況を打破できる。
ラズワードは背負っているライフルに意識を向けた。麻痺とは違ってこの魔術は体が動かないわけじゃない。血反吐を吐こうとも無理さえすれば、体を動かせる。
(……大丈夫だ……いける……!)
ラズワードはギッとイヴを睨みあげた。喘ぐラズワードを間近で見ていたイヴは、その表情にすら悦んでいるに違いない。この状況でラズワードが反撃できるわけがないと油断しているイヴから時間を稼ぐことは、そう難しいことではない。そうラズワードは判断する。
そして。
「――っ!?」
ラズワードはイヴのネクタイを引っ張り、その唇に自らのそれを重ねた。イヴは流石にそれは予想がつかなかったようで、驚きから抵抗を見せなかった。抵抗される前に、とラズワードは舌でイヴの唇を割り、イヴの口内を弄る。
「……っ、何を……!」
ラズワードがイヴの後頭部に手を添えたところで、やっとイヴはラズワードを突き放した。意図の掴めない突然の口づけにイヴは激しい嫌悪を見せる。ギロッと睨むイヴにラズワードは笑みを返してやった。そして立ち上がり、言う。
「……どうだよ……自分の魔力の味は……!」
「……な、……っ!?」
その瞬間、イヴはガクッと項垂れた。それと同時に、血を吐く。
「……貴様っ……」
ラズワードは自らの体液をイヴに送ったのだ。おそらくパトローネによってイヴの魔力が体中に回っているのだと推測したラズワードは、その現在「毒」の魔術式を持っている魔力が溶け込んでいる体液をイヴに流し込んでやれば、同じ効果を与えることができると考えた。そのためより多くの体液を送ってやろうと舌まで使ってキスをしたのだった。見るところによれば、推測は正解。ごく微量の体液しか送れなかったためその効果はイマイチではあるが、イヴの動きを鈍らせるのには十分なようだ。
イヴは一瞬殺気を放ったが、再びこみ上げてきた血に、行動には移せなかったようだ。ラズワードはその隙にライフルを抜く。毒の痛みが引いているわけではない。まったく治る気配もない。本当は立っているだけでもやっとの状態であった。毒のせいで視界もはっきり定まらないため、羽ばたきの音と、ぼんやりと見える影だけを便りにラズワードは標準を定める。
そして、引き金を引く。毒でボロボロの体ではその反動に耐えられなかったのか、ラズワードはライフルを落としてしまった。まずい、と思ったが、それは杞憂のようだった。レーメンのいたところから、ドサ、と肉の落ちる音がする。
レーメンは死んだ。魔術が使える。
ラズワードは痛みで上手く働かない頭を奮って解毒の魔術を使う。体の痛みはみるみる引いていき、ぼやけた視界も良好になっていく。
「……よくも好き勝手やってくれたな……イヴ……! 俺の苦しむ顔がみたい? そんなものもう二度と見れないと思え……! おまえは今ここで殺す!」
「……ふ、初めてだね……俺にこんなことしてくれたのは……でもそれで調子にのっちゃいけない。そういうことはせめて俺の使える魔術を全て把握してから言うんだね……『Folgen Sie meinem Befehl』!」
「……っ、また、パトローネか……!」
イヴの叫んだ命令。意味のわからない言語のため、どんな魔術だか予想がつかない。どんな魔術がくる、ラズワードは身構える。
しかし、少し待ってみても何も身体に異変は起こらない。即座に治癒を行うことを考えて行動を攻撃に移さなかったが、それは失敗だったか、とラズワードは内心舌打ちをする。
しかし、イヴの魔術が効かなかったわけではない。それは、背後から急に襲ってきた衝撃に気づかされる。
「……っ、な、」
鋭い痛みが腹部を貫く。何事かと見てみれば、刃物で腹が貫かれている。
(なんで……イヴは確かに俺の目の前に……!)
振り向いて、ラズワードは戦慄した。そうだ、イヴでないのなら、これを可能とする人物は一人だけ。
「……グラエム……!?」
ラズワードの腹を刃物で刺したのはほかでもない、グラエムであった。裏切ったのか、そう思ってラズワードはショックに目眩がしたが、グラエムの表情にそれは違うと気付く。
「……洗脳……」
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