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訓練場は少し大きめな部屋となっている。牢とは違って整然とされた空間で、きちんと照明設備も整っていて明るかった。荷物などを置くためにあるのであろう、部屋の端の方にはるテーブルにノワールは魔術書を置く。椅子を二人分用意して、ラズワードに着席を促し自分も座った。
「いつも感覚で魔術使っていたでしょ? 俺の教え方もそんな感じだったし。でも、難しい魔術を使うには魔術式からしっかり理解しないといけない。だから、今日からは実践じゃなくてこっちね」
「……普通、先に勉強してから実践じゃないんですか?」
「ラズワードの場合はたぶん……一切魔術式とかの勉強はしてこなかったでしょ? それでいきなり式だけ見てもまったく理解できないかと思って。さきにある程度魔術を使えるようになってから、式をみればわかりやすいと思ったんだけど」
ノワールがパラパラと魔術書をめくる。紙面にビッチリ書いてある式は見ているだけで目が回りそうだった。目を白黒させるラズワードを見て、ノワールが静かに笑う。
「……難しそう?」
「……だって……俺、全然魔術は……」
「大丈夫だよ。俺がちゃんと教えてあげるから」
ノワールが魔術書を開いてラズワードの前に置く。正直何が書いてあるのかサッパリであったが、教えてあげると言ってくれているノワールに学ぶ姿勢だけでも見せようと、ラズワードは魔術書を凝視した。
しかし、やる気をだしてみたもののわからないものはわからない。……そもそも、なぜ自分がやる気をだしているのかもわからない。これは奴隷としての訓練の一貫、もちろん奴隷になどなりたいわけではない。ノワールの期待に応えようなどというわけのわからない理由である。
いったい自分がノワールに抱く感情はなんなのだろう。ラズワードはそう思ってノワールをチラリとみた。頬杖をついてこちらを見ていたノワールは、ラズワードと目が合うと目を細めて「どこがわからないの?」と行ってくる。その表情を見て胸の中で何かがチリ、と焦げる。
昨夜ノワールにあんなことを言ったのも、衝動的であった。自己破壊的な考えなど倫理的に間違っているだなんて高尚な考えをもったわけではない。ただ、自分のことを激しく嫌悪し「生きる」義務感に苦しめられる彼を見ていて、まるで彼に自己を投影したかのように胸が苦しくなったのだ。もちろんラズワードはそんな境遇にはない。それでも共感の錯覚を覚えるほどに、彼に心を留められていた。
ラズワードがずっと見つめていた箇所を覗き込むようにノワールが身を寄せてくる。その時に鼻を掠める彼の匂い。シャツの襟元から覗く白い肌に、鎖骨の陰影ができている。紙にペンを走らせる手つきは滑らかで、思えば初めて見る彼の字。おそらく元は達筆なのだろうが、今は走り書きをしているせいか少々崩れた字体となっている。
「少し式を崩してみたけど……どう? 少しはわかりやすくなった?」
「……あ、はい……」
どうかしてる。今のはまるで……。
ラズワードは軽く頭を振ってノワールの書いた式を見る。難しいことには変わっていない。元の式が難しいのだ。簡単な式に治すのにも限界がある。それでも、せっかく書いてくれたものを無駄にはしたくない。そう思ってラズワードはその式を睨む。
でも、どうしても視界の端にうつるノワールが気になって仕方がない。気のせいかいつもよりも優しい彼。昨日のこともあって不自然にも感じてしまう。昨日までと比べて表情に陰りが少ないのも、思い違いなのだろうか。
「……ノワール様」
ラズワードは顔を上げる。そして、しっかりとノワールを見つめた。そうすればノワールはぴくりと体を揺らす。
「……ノワール様。……昨日あなたが言ったこと……まだ、考えは変わっていませんか?」
「――っ」
ハと目を見開いたノワールに、ラズワードは迫る。
こんなことをする必要はない。こんなことを聞かなくても、今までどおりやっていけるんだ。それをわかっていながらなぜか止まらない。その優しい笑顔の仮面をはがさなければ。そうしなければ、彼は呼吸ができなくなって窒息してしまう。
放っておけばいいのに。勝手に苦しんでそこらへんに転がっていればいいのに。そう思うのに、口は止まらない。
「……あなたは……まだ、生きなければいけないと……そう思っていますか」
「……ラズワードは俺が憎いんだろ? 死んで欲しいならそう言えばいいじゃないか」
「そういう意味じゃありません。……俺が言いたいこと、わかるでしょう?」
わざとらしく的外れな返事をするノワールに対して苛立ちを覚えた。ラズワードは語尾を荒げながらノワールに詰め寄る。あからさまに目をそらし、ラズワードから逃げようと身を引くノワールは、昨日よりも意思は薄まっているように見えるが、未だその想いにとらわれているのだろう。ラズワードを正面から否定することはしないが、受け入れることもできないのだ。
「ノワール様……あなたは、ずっと……苦しみ続けるんですか……!」
「……その話は、いいだろ。ラズワード……ちゃんと座って、続きを……」
「ノワール様!」
今、自分を拒絶しようとするノワールの様子は昨日とは違ってラズワードには見えた。昨日のように頭ごなしにラズワードの言葉を否定しようとはしない。逃げているのだ。はっきりと拒絶できないから、逃げている。
そんな彼の姿が余計にラズワードの心を急き立てた。
「そうやって……自分が壊れていく音も聞かないでいつまでも耳を塞ぐんですか……そんなことをしていても苦しいもんは苦しい……! 最後には本当に手遅れになるんですよ!」
「……、本当に、黙ってくれないか。……どうしてそんなに俺の中に入り込んでこようとするんだ……おまえには関係ないだろ。おまえにとって俺はただの調教師、おまえをそんな境遇に貶めた元凶だろう……」
「――っ」
ガタン、と椅子の倒れる音が静かな部屋に響いた。
気付けばラズワードはノワールを机の上に押し倒していた。自分の行動にラズワードは驚く。必死に拒絶の姿勢を見せてこようとするノワールを見ていたら、勝手に体が動いていたのだ。
見下ろした先のノワールは、いつもの彼は嘘のように無抵抗である。抵抗しようと思えばいくらでもできるだろう。昨夜も詰め寄った際には蹴り飛ばしてきたのだから、彼にその意思があればラズワードの拘束などいとも簡単に解けるはずだ。それなのに、彼はそれをしない。ただ、ラズワードの視線から逃げるように手の甲で自らの目を覆い隠すだけ。
そんな仕草のしおらしさは、今の彼の心の内を表しているのだろう。苦しみ喘ぎ続け、目の前の解放を見せつけられてこれ以上それをいらないと言い張ることができなくなってしまったのだ。
ラズワードはノワールの手首を掴み、机に縫い付け、言う。
「もう見ていられないんだよ! あんたが壊れていくのを見ていると、こっちが苦しいんだよ……!!」
「……っ、おまえが俺に同調する必要なんてないんだぞ。俺の何を見て壊れるだなんて言っているのか……俺はこれからもずっとこうして生きていく。変わらない、今までもそうしてきたんだ。勝手に俺にそんな幻を見ているのならそれで結構、そう思っていればいい。ただ壊れていく俺ってやつを嗤って見ていればいいだろう。おまえが憎むやつが勝手に自滅していくんだ、祝福すればいいじゃないか」
「……おまえは、また、そうやって……言葉を連ねて分厚い仮面を作り上げるのが好きなんだな……」
「……は、何を……これは俺の本し……、」
ノワールは口をつぐむ。言葉は途中で遮られてしまった。いや、言葉を発せない状況に置かれてしまったのだ。
虚構を作り上げるノワールの唇を塞いだのは、ラズワードであった。自らの唇をそこに重ね、偽りの言葉がこれ以上生み出されることを拒んだ。
「……黙るのは、あなたです……ノワール様」
「……」
「あなたの本当の言葉だけを、聞かせてください。……今のあなたの言葉が本心じゃないってことくらい、あなたの顔見ればすぐわかりますから……」
辛そうに言葉を吐き出したノワールは顔を傾けラズワードの目を見ないようにしていた。自分のことを激しく嫌悪するように目元を歪め、見ているだけで胸が痛くなってくるような表情。得意の口舌だということくらいすぐにわかる。
「……ノワール様……」
「……やめて、くれ」
「え……」
ノワールはチラリとラズワードを見上げる。目があった瞬間、その瞳は揺れ、臆病に瞬きをした。微か目元は赤らみ、少しだけ溜まった涙に光が反射している。
「ラズワード……お願いだから……」
もう一度、目はそらされる。
ラズワードの視線に怯えたように目を閉じる。その拍子に、涙が一筋こぼれる。
乱暴に押し倒したせいか、ノワールのシャツは僅かに乱れていた。襟元がはだけ、華奢な首のラインがくっきりと見える。
「お願いだから……見るな……。俺を、見ないでくれ……」
少しずつ、涙は目からあふれだす。唇を噛み。涙をこらえながら。
その姿にラズワードは頭を強く殴られたような衝撃を受けた。最凶の奴隷商のあられもない姿。このとき初めてラズワードは自分が今やっていることがとんでもないことだということに気付く。カッと顔に血が昇ってきて、体中の熱が沸き起こるような感覚。
「――……っ」
思わずラズワードは身を引いた。鏡など見なくても自分の顔が赤くなっていることくらいわかる。バクバクとうるさい自分の心臓の鼓動を聞きながら、恐る恐るノワールを見やった。
ノワールは解放されたというのに、押し倒された体勢から動こうとしない。腕で目を覆い、深く息を吐きながら、ぐったりと机に背をあずけている。
「……ラズワード……」
「……っ、はい」
「……おまえは、俺を拒絶していればいい……。俺をみるな。俺のことを考えるな――そうでないと、俺は……」
は、と彼の吐く息がひどく官能的に思えた。呼吸のたびに動く胸元に、目が釘付けになった。
ノワールは腕をどけ、涙に濡れた瞳でラズワードを見つめる。訴えるような視線に、ラズワードは息を飲んだ。
「俺は……おまえが欲しくなる」
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